第一章⑦

 一見物憂げとも印象付けられるミハイルの、半ば悲鳴にも近い熱弁に遠慮がちではあるが、水を差したのはセシエレだった。ユリンカも、聞き飽きたと言わんばかりに、手をひらひらと振った。彼女は、ミハイルのことを実の兄のように慕っているが、唯一心配性で説教しだすと止まらない、という癖だけはどうにも苦手だった。

 ヴィニもぎょっとして、文学青年風のミハイルを凝視している。ミハイルとヴィニの目が合い――灰色髪の青年は、小さく会釈した。それを受けたミハイルもまた、ヴィニに倣った。流れる、奇妙な沈黙。

違和感に気付いたミハイルは、ヴィニをまじまじと観察する。何かを口にしないでも、彼の黒瞳は、この男は何者だ、と雄弁に語っていた。ミハイルはユリンカに向き直りヴィニを指差した。

「お嬢様、あの者は一体何者です?」

 ミハイルの声音は、再び熱を内包していた。口を差し挟めない彼の迫力に、ユリンカは意図せずして両手のひらを胸の前で開いた形になった。

「ざ、暫定だけど新人よ」

「ヴィニ・ゲインズブールだ。そちらのお嬢さんに雇われたばかりさ」

 皮肉っぽい表情を作り自己紹介したヴィニへと、ミハイルは無言で歩み寄ると、敵を前にした眼差しで睨みつける。どうやら、黒髪の青年はヴィニをお気に召さなかったらしい。

「僕の名前はミハイル・ディアレだ」

 まるで短剣を突きつけたと思わせる口調で、ミハイルは名乗った。彼は、無遠慮にヴィニの全身を見ると、

「お前は《シェラー》か?」

「見ればわかるだろう?」

 ヴィニの返事を無視し、ミハイルはユリンカの元へ戻る。

「お嬢様、何故あのような得体の知れない者を屋敷へ入れたのです?」

「そうだな、俺もそれが知りたいね。君はどうしてこんな得も知れぬ奴を雇う気になったんだ?」

 ソファーに座り直し、ヴィニはミハイルと似た問いを、新しい雇用主に投げかけた。ユリンカは手を組み直し、灰色髪の男を見据える。

「わたくしには、あまりに情報が少ない。《誓呪》の仕組みなど、《ディナ・シー》ではない者は与り知らないもの。それの強化薬と言われたところで、ピンとこないのが現状だわ。でも、ヴィニ・ゲインズブール――あなたは違う」

 ユリンカの黒瞳は熱を帯び、組まれた指は力んだのか、うっすらと赤みを彩る。真っ直ぐに向けられた彼女の表情に居心地が悪くなったのか、ヴィニは後頭部を掻いた。

「無礼を承知の上で申し上げますがお嬢様、考えが浅すぎます。この者がいかに知識を持っていたとしても、どこの馬の骨ともわかりません」

「……ミハイル、そんなこと百も承知よ」

 ユリンカは苛立ちを部下にぶつけるが、ミハイルはそれを躱し、続ける。

「この者の身分を保証する物は? お嬢様に害を為す者という可能性だって大いにある――いえ、この際はっきり申し上げますと、例えこの者がお嬢様に害を為すつもりがないにしても、それを証明する物はどこにもないのです」

「――ミハイル」

 セシエレの制止を、ミハイルは聞かない。

「ましてや《シェラー》――彼らが悪いとまでは申しませんが、彼らの大多数が裏社会に身を投じているのはお嬢様もご承知でしょう?」

「そんな悠長なことを言っている場合ではないのよ、ミハイル」

 ユリンカの声音は、自嘲と憤怒を抑えるように、震えていた。

「あなたもわたくしの置かれている状況はわかっているはず。わたくしが、少ない私兵を動かせる権限程度しか持っていないことくらいは。だから今は一人でも多くの優秀な手勢が欲しい――これが本音。彼があの時何故わたくしを助けたのかは知らないけれど、あの一瞬で見せた能力――それに、《ディナ・シー》の知識も合わせて――わたくしはあなたが欲しいの、ヴィニ」

「それにお嬢様、どうしてお嬢様はあそこに肩入れし――」

「無駄ですよ、ミハイル。あなたもご存知の通り、お嬢様は頑固な方です」

 セシエレは同僚の言葉に被さり、肩を優しく叩いた。ミハイルは不満そうな色を滲ませたが、それ以上言及しようとはしなかった。

「本題に移っても宜しいでしょうか?」

 セシエレは居住まいを正し、再び資料に目を通した。

「少し配置を変更します。お嬢様とミハイルは邸宅に残ってください」

「セシエレ、わたくしも一緒に――」

「いえ、お嬢様。それはなりません。私とヴィニ殿は、《ヴィッカー通り》の情報屋を当たります。あそこの中でも、裏――最も闇の濃い筋に出向かなければ、その手の情報は流れてこないでしょうし――そんな場所にはお嬢様をお連れするわけにはいきません」

「そのヴィニ、という男は当てになるのか、セシエレ?」

 面白くなさそうな口調で、ミハイルはセシエレに訊ねる。彼女はふっと顔の力を抜いた。

「さぁ、わかりませんね」

「そいつは手厳しいね」

 ヴィニは飄々とした笑みを象ると、肩を窄めた。

「だからこそお嬢様の傍につけるのは心許ないですし――当初の予定ではミハイル、あなたと行動を共にしてもらう案でしたが――危惧した通りに反りが合わないようなので、この配置が最も適切かと思いますが」

 ミハイルは鼻を鳴らし、黙った。彼女の言う通りだったからだ。得体の知れない男と共に行動し、ましてや主の傍に置いておくことなどは、ありえなかった。そういう意味で、ミハイル・ディアレは、気位の高いシェルレアン人の典型とも評せる。

「ニコラの容態はどれくらい保つの?」

 ユリンカは、ヴィニへ視線を向ける。セシエレではなくヴィニに話を振ったのは、彼が最も《ディナ・シー》へ通じているからだ。

「あの坊主の体力にもよるが――最低三日、一週間保てばいい方だな。間を取って、四日くらいか。しかし、《ディナ・シー》以外の子供に投与したという前例はないんでね。あまり楽観的な見方はしない方がいい」

 ユリンカの表情に、沈痛が混じる。だが、すぐに真顔に戻すと、セシエレとヴィニに命じた。

「一刻の猶予もないわね。迅速に、かつ正確に情報を掴んできて頂戴」

「御意に」

 セシエレは慇懃に会釈し、ヴィニは軽く頷いた。ミハイルはまだ何か言いたげだったが、主を含む彼らに緊迫感が張り巡らされたのを感じ取り、結局は何も発しなかった。

 セシエレに続く形で部屋の出入り口にふと足を止めたヴィニは、振り返る。

「何かしら?」

「一つ訊きたいんだが――君はどうして、貧民街の子供を助けようとしているんだ? 君は貴族だ、貧民街など気にもかけないのが一般的だろう? その辺りが俺には少しわからなくてね」

 ユリンカは、ヴィニの問いに目に影を落としたが、すぐに笑む。

「ニコラだけじゃないわ。わたくしは、お爺様のご遺志もあるけれど、ただこの帝都を良くしたいだけ――あの子たちには幸せになってもらいたいの。あなたのことが信用に足る人物かどうかはわからない。けれど、これは偽りなき理想だわ」

 それは、嘘偽りのない彼女の本音。ヴィニは淡く微笑み、

「――青いな、君は。だが、俺はそういう甘さは嫌いじゃないな」

 それだけ言うと、背を向けた。

ヴィニが笑んだのは一瞬のことだったから、ユリンカから彼の表情は、扉に遮られて見えなかった。

「さて、ミハイル」

 二人が出た後を見計らって、ユリンカは部下に声をかけた。

「何でしょう、お嬢様?」

「わたくしたちにも為さねばならないことがあるの。お兄様の許へと参りたいので、手配をお願いするわ」

「お兄様と言うと……」

 ミハイルは言い澱んだ。ユリンカはセルトワ家の四女であり、上に二人の兄がいる。ユリンカは部下の沈黙に、眉を吊り上げた。

「決まっているわ。ルフェルト兄様のところよ。《帝騎警》を動かしてもらわなければならないから――いいえ、動かしてもらわなきゃならないのよ、絶対にね」

 憤慨を抑えきれない様子で、ユリンカは言った。セルトワ家長男ルフェルト・セルトワは、《帝騎警》の副総監だ。帝國皇帝が総監であるが、実質的な取締役は副総監が担うことになっており、その任は最も有力視されている諸侯から選出されている。セルトワ家次期当主筆頭候補とも言われるルフェルト・セルトワは、まだ当年二十九と、最年少副総監として就任したばかりである。次期候補に過ぎない彼が、どういった経緯で副総監に選出されたのか――それは、現当主が病に臥せているためだ。

「確かに、お兄様は《帝騎警》を動かしてはくれないかもしれない。今まで放置していたのが――《帝騎警》の腰が重いのが、何よりの証。けれど、頼む価値はあるわ」

 ミハイルはユリンカの言葉を聞き、神妙な面持ちを貼り付けた。頬に添えられた彼の指は、神経質に皮膚を叩いている。

「どうしたの、ミハイル?」

 何故か相槌すら打たずに沈黙した部下を見やり、ユリンカは怪訝な顔を作った。主の声にハッとしたのか、ミハイルは目を瞬かせ、

「いえ、何でもございません。お嬢様、時間が惜しいのでしょう? でしたら、早く参りましょう」

 取り繕うように、主を扉へ促した。反発は、すっかりなりを潜めている。その代わり、ミハイルは視線をユリンカに合わせようとはしなかった。

ユリンカはしばし不審な動きをする部下に何か言いたげだったが、素直に彼の言葉に従った。

 ふと額に異様な紋様を刻まれ苦しむ少年の姿を思い出すことによって再来した胸の沈痛を噛み締めるように、彼女は祈りをこぼした。

「頼んだわよ、二人とも」

労しげに目を伏せるのも束の間、ユリンカは力強さに満ちた挙動で、部屋を出た。

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