第一章⑥

 自室の空気はいつ吸っても落ち着く――ユリンカは、淹れられた紅茶を口に運び、ふとそんなことを思った。だが室内は常にも増して、張り詰めている。

 シェルレアン上流階級の家々が建ち並ぶイェレ区、通称花と蛇の宮と称される白亜の豪邸――セルトワ邸。部屋の総数は百以上ある中の、一室――。

「以前から《ヴィッカー通り》ではニコラに使用されたと同型の、薬のようなものが出回っていたようです」

 セシエレは、びっしりと字が敷き詰められた資料に目を落とす。

 ユリンカは部下の説明を聞きながら、医療施設で以前昏睡したままのニコラのことを慮った。彼を運んでから方々を探してはみたものの、中和薬は発見されず――加え、祖父や父の知人と思しき《ディナ・シー》を捜索しても、一向に捕まらない。

 刻一刻と進む時計の針を睨みつけるように見つめ、ユリンカは暗澹たる心持ちを持て余していた。自らの無力さに舌を打ちたくなり――ふと部下の言葉に何かが引っかかり、ユリンカは、外れかけていた焦点をセシエレに合わせる。

「ちょっと待って」

「何でございましょう?」

「その薬――かどうかはわからないけれど、出回っていると言ったわね、セシエレ?」

 麗しき主の声音が、微かに震えを帯びていたのに気付いたが、セシエレは頷くだけに留める。

「ええ、前から噂になっていたようで――ガードフ神父が我々を呼んだのも、その旨を伝えたかったからだと申されておりましたが」

 ユリンカは《ヴィッカー通り》の孤児院へ、単なる慰問のために出向いたわけではない。彼女は、個人的にキエランと親しかった。祖父スタニスラスが生前、よく彼女を連れていたからだ。元々、シェルレアン帝國とエルヴァネス国教会は、それほどまでに強い結びつきは存在しない。スタニスラス没後、シェルレアン貴族の中でも発言力の大きいセルトワ家と繋がりの切れたキエランにとって、まだ少女と形容してもいいユリンカのみが、陳情を直接伝え得る上流階級だったのである。

「お兄様――いえ、《帝騎警》は一体何をやっているの!?」

 ついにユリンカは昂ぶる怒りを抑え切れなかった。セシエレは彼女を宥め、力なく頭を振った。

《帝騎警》――帝都の治安を守っているはずの機関に、呪詛を撒き散らしたくなるほどの怒りを、ユリンカは震える拳に込めていた。

「仕方がありません。《帝騎警》の管轄区域はあくまでイェレ、ヴェネト区のみ――デッセル区や、まして《ヴィッカー通り》には目を向けてはおりません故」

「だからいつまで経ってもあそこは改善されない!」

 一際大きな声と共に、手が机に叩きつけられる。衝撃に、ティーカップに満たされた琥珀色の液体が、水面を揺らした。

「いくらお爺様が良くされようとしていたって――」

「まぁ、落ち着けって嬢ちゃん」

 そこで穏やかに口を開いたのは、灰色髪の青年――ヴィニ・ゲインズブールだ。

半ば拉致に近い形でユリンカたちに同行させられ――今は、軽い立食パーティー程度ならば主催できるほど広さのある少女貴族の自室に据え付けられたソファーに腰掛けている。

「薬の出所は?」

 激昂するユリンカに代わり、訊ねたヴィニに答えるセシエレは、溜息混じりだ。

「申し訳ございません、まだわかりません。《帝騎警》は当てにはなりませんので。となると動けるのは私とミハイル、そして――」

 セシエレは、ヴィニを凝視した。彼女の目に射抜かれても、彼は物怖じした素振りも見せない。ヴィニにしてみれば、自身の意思は全く介在していない成り行き任せと言ってもいいだろう。

「まぁ、しばらくこの街からは出られないそうだから手伝うしかないだろう? だが、問題は薬のことだけじゃない。俺か君、どちらかはわからないが狙われている」

 暗に、孤児院で襲ってきた矢のことを言っているのだ、とユリンカは思った。

「そのことは――あなたの言葉を借りるわけではないのだけれど、わたくしにも心当たりがあるの」

「心当たり?」

 ユリンカは頷く。しかし、すぐに厳しい光を黒瞳に漲らせる。

「ええ、そうよ。でもあなたにはまだ教えるわけにはいかない。あなたを信用しているわけではないから。――最も、どうせすぐにわかるでしょうけど。それに、あなたも自分の心当たりとやらをわたくしに教えてくださる気はない」

 それは、確信だった。

「これは参ったね。お互いをまだ信用してないってことだな。まぁ、俺は君に雇われるのは悪い気はしないがね。食うのに困ることはなさそうだから」

 ヴィニは正直に言った。今の彼は、ただの放浪者だ。荒事を引き受けたり、土木を手伝ったりといった仕事ばかりで、日銭稼ぎの生活だ。上流階級の人間が自分を雇うのは、決して悪い話ではない。

「で、俺は何をすればいいんだ?」

「配置についての案は、一応考えています」

 セシエレは資料を捲ると、一瞬不可解な感情を滲ませた。困惑と緊張が溶け込んだと表現できる表情に二人が気付くよりも、一瞬早く掻き消す。

「いつも仕事が速くて助かるわ」

「お褒めに預かり、光栄です。その案ですが」

 セシエレの言葉に被さり、誰かが扉を叩いた。

「どうぞ」

 ユリンカは、誰の来訪かわかった。彼女の部屋を訪れる人間は限られている。一回目は強く叩き、二回目は微かに力を弱める癖――。

「失礼します」

 入ってきたのは黒髪のシェルレアン人青年だ。長身のセシエレよりやや低いが、均整の取れた肉体は、タキシードに包まれている。利発的な瞳は穏やかで、形容するならば文学青年といった趣である。決して華奢なわけではないが、彼から匂う空気は、荒事とは無縁だと思えるほど繊細だった。

「ミハイル!」

 ユリンカは、嬉しそうに目を細めた。

「遅れまして申し訳ございません、お嬢様」

 ミハイルは慇懃に頭を垂れ、心配を溶かした気色を顔に塗ると、息を吸い込む。その様子に、ユリンカは少々嫌な予感を覚えた。

彼が杞憂を浮かべ、大きく深呼吸する癖の後にはじまるのは、決して穏やかなものではないからだ。

 ユリンカの表情に少し怯えが見えたのは、おそらく間違いではないだろう。

「お嬢様! セシエレから聞きましたよ襲撃されたそうじゃありませんか! お怪我はありませんか!? 僕は心配で心配で――」

 今にも倒れてしまうかと思えるほど大袈裟に、ミハイルは身振り手振りで《ヴィッカー通り》の危険性を演説しはじめた。

「だからあれほどあの通りには努々近付かぬように、と申したのです! いえ、僕にも責任はありますとも僕が今日は休んだばかりにこんな目にあって! お嬢様にもしものことがあったら僕は亡きスタニスラス様に何とお詫びすればいいのです!? スタニスラス様が一番可愛がってらっしゃったのは他でもないお嬢様なのです! それはもう目に入れても痛くないほどの可愛がりようで――」

「あーミハイル? それくらいにしておいてくれませんか?」

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