第一章⑤
「ニコラ!」
キエランは顔面蒼白になって、椅子に横たわる七歳ばかりの少年の、小さな手を握る。外に遊びに出ていた孤児院の住人である子供たちも、全員揃って彼を囲んでいる。どの子も、困惑と動揺と心配とが混ざっている顔を浮かべていた。
「これは――薬物中毒だわ」
白濁した泡を襟元にこびり付かせ小刻みに痙攣しているニコラを見て、ユリンカは言った。彼の白目を剥いて意識が混濁している様――過度の薬物を急激に投与された者の症状に思えた。
子供たちの話によると、ふらふらと路地裏から出てきた一人で遊んでいたはずのニコラ少年が、いきなり泡を吹いて倒れた、ということらしい。
「おお神よ、何てことを――」
キエランをどかせ、セシエレはニコラの脈を計った。大量摂取した薬の影響か、心拍が大幅に乱れているのがわかる。
簡単な――一般家庭と同等程度の医療知識しか持たない彼女でも、少年の状態が危険なことは、一目瞭然だった。
「それ、麻薬じゃないぞ」
背後からかかった声に、一同は振り返り――ヴィニがゆっくりと歩を進めてくる。
「そのぶっ倒れ方は《ディナ・シー》の《
「え?」
ヴィニは椅子の傍まで来ると、ニコラの前髪を掻き上げ、額を露出させた。同時に、周りを囲んだ子供たち――主に少女が、おぞましい光景に息を「ひっ」と呑んだ。
ニコラの額はどす黒く変色していた。
尋常でなく異質な肌の色――脱皮前の蛇を思わせる暗灰色――に加え、何か皮膚の下で蠢いているのか、蠕動しているのがわかる。
「な、何これ?」
上擦った声で、ユリンカはヴィニに訊ねる。
「だから言ったろ、《ディナ・シー》の《誓呪》を強化する薬の劣悪品だって。《誓呪》なんてものは、大体の人間にとっては無縁で適性のない代物で、有害だ。適性がないから、身体が拒否反応を起こして発作を起こすのさ。そいつを飲んで恩恵が得られる人間は《誓呪》を使うことのできる奴のみ。
確かに少量程度なら多少高揚感を得られるが、後で散々吐き散らかすことになる。坊主の症状は、《エリクシール》の過剰摂取。その証拠が、この痣さ。坊主の身体がこの世界にはないもの――つまり《誓呪》の根本となる力だが――に、捩じ伏せられようとしているんだ。……本来製法は門外不出なんだが、持ち出した奴がいるらしいな。あるいは、奴らが裏で流したか。
どちらにせよ、この坊主さっさと手を打たないことには死ぬぞ?」
「手を打つって言っても」
ユリンカは困惑した。ヴィニの話が真であると仮定するならば、治療薬は存在していないことになる。《ディナ・シー》は、この世界で唯一の魔法――《誓呪》を使用する民族であり、機関であり、国家だ。そして、強固な結束に裏付けられた血族である。
故に、彼らは《誓呪》という秘儀を門外には絶対出さない。彼らが使用する《誓呪具》という魔法道具であっても同様で、それらを一族以外の者が手にする機会などほとんどない。戦場で雇われた《ディナ・シー》が使用し、製法も闇の中だ。
《誓呪》が何たる力の発露か、それすら非ディナ・シーにとっては謎めいている。
ユリンカはふと、思考を素早く廻らせた。傍らに立つ灰色髪の青年を盗み見る。あの場で垣間見せた身体能力――野放しにしておくのは、勿体無い。それに、この男は様々な見聞にも通じているようだ。信用に足る人物であるかは、この際置いておくとして、自らの子飼いにするのも悪くない案に思えた。
何しろ、彼女の使える私兵はセシエレを入れても二人――多いに越したことはない。
「あなたは、《誓呪》が何か、ということをご存知ね?」
ヴィニは、頷く。
「知っていることは知っているが、全てじゃない。俺は《シェラー》なんでね」
「知っていることを、教えてくださらないかしら?」
「って言われてもな、そんなに詳しくはわからないんだが。何せ、使えないから。《ディナ・シー》なら誰でも知っていることくらいしか、わからないが?」
「それでいいわ、元よりわたくしも使えないのだから。ただ、この子に使われた薬が《ヴィッカー通り》に蔓延する……いいえ、すでに蔓延している可能性があるのならば、無知では済まされない。それだけよ。この場所だけでなく、帝都全域に広まる可能性があるのならば、なおさら。《ヴィッカー通り》とは言え、仮にもここは帝都。そして、わたくしはそのようなものが帝國領土内に侵食していることなど、露ぞ。この国に住まう者――上に立つ者として、それは恥ずべきことだわ」
ユリンカは、正直に告白した。自らは、この力に対して何も知らない。だが、目の前で苦しんでいるニコラを見ていると、知らないでは通用しないと、心底思ったのだ。
「なるほど、そういう心掛けは悪くない。――まず、《誓呪》って代物だが、君の認識はどのようなものだい?」
ユリンカは思案した。彼女がすぐに想起するのは、不可思議な力――念じただけで物を動かしたり、火を点けたり、対象物を殺傷したりといった力。それ故、《ディナ・シー》は畏怖されている。彼らが征服された歴史を持たないのは、その謎めいた力を保有しているということが、一番大きいだろう。
「物を動かしたり、火を放ったり、何かに干渉しているのだろうけれど、その原理がわからない」
「それでいい、間違っていない。《誓呪》ってのは《ディナ・シー》のみが体内に持っているある力――確かあいつらは《異の力玉》と呼んでいたが、それを色々なものに言葉によって干渉させる――一種の誓いだ」
「誓い?」
「そう、誓い。俺はこういう約束を守るから、例えば敵を殺してくれ、とかそういうものさ。何でも《ディナ・シー》は神に祝福された民だからそういう力を授かり受けた、ということらしいね」
「では強化薬というのは、彼らが履行する契約を極力軽いものにし、威力を増幅させるための品だと考えてよろしいのですね? 中和薬のようなものはないのでしょうか?」
口を挟んだセシエレに、ヴィニは相槌を打つ。ユリンカは彼の言っていることの多くは理解できなかったが、途方もない力であるということは、想像できた。
「察しが良くて助かるよ。確かに、薬で強化するわけだから中毒状態に陥ることは多いと聞く。連中が強化薬と同時にその状態から抜けるための中和薬も持ち歩いているのは、当たり前と見ていいだろうが。悪いが俺は《はぐれ》だから、その手の中和薬は持ってない。嬢ちゃん、アンタの知り合いに《ディナ・シー》はいないのか? セルトワ家の口利きならいくらでも売ってくれると思うが」
ユリンカは頷き、セシエレと目配せした。セシエレは軽めに会釈すると、横たわるニコラを抱きかかえる。
「とりあえず、医療施設へ運ぶわ。中和する薬のようなものも見つかるかも知れないし、薬が手に入るまで安静にさせないと。それと、ヴィニ――と言ったかしら」
ユリンカは、悠然とした動作でヴィニと向かい合う。ゆったりとした動きではあったが身に纏う空気は、彼女本来の気品が、全身から滲み出ているかのようでもある。
「あなた――とりあえずの間、わたくしが雇うわ。いえ――もっと言うなら、しばらくこの街から出さないわよ」
ヴィニは、飄々とした眼差しに、少々の享楽的な光を宿した。だが、ヴィニの瞳はユリンカに――ではなく、彼女の提案について興味を抱いたようでもあった。
「俺は狙われている身だぜ?」
深刻なこの場にそぐわない軽口に、ユリンカの片眉が跳ね上がったが、何も口にしなかった。ただ一言だけ、硬い響きで命令する。
男のくすんだ月光石とぶつかった少女の黒真珠は、強く輝き揺らぎもしていない。
「あなたに決定権はなくってよ」
ヴィニに背を向け礼拝堂を出ようとした刹那、再び振り返り彼女は優雅に会釈をし、
「さきほどは助けて頂いて、感謝しております」
感謝を舌に乗せた。貴族令嬢からの謝礼にヴィニは、ユリンカには気付かれないよう頬を緩めた。背を向けたユリンカはまだ何か言い足りないのか再び振り返って、
「勘違いしないで、シェルレアンの貴族は助けてもらって礼も言わない無礼な輩と思われたくないだけ――ほら、ぼんやりしてないでついてきて下さるかしら?」
何故か口早に捲くし立てた。
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