第一章④

 食器の立てる音が、静寂に大きく響く。

 教会の談話室には、ヴィニ、ユリンカ、セシエレ、キエランの四人しかいない。大人の話があるからと、キエランは子供たちを外へやったのだ。

 ヴィニは自分の空腹を埋めることに執心しており、ユリンカやセシエレの視線に頓着していない。

 キエランが用意したのは、シェルレアン帝國では大衆的なライ麦のパンに、芋を蒸かした後よく煮込んだ塩味のスープだ。質素であるが、空腹を最大の調味料にして、次から次へとヴィニは胃へ詰め込んでいく。

 ユリンカは、内心驚愕しつつ憤激していた。

目の前でパンやスープを食い散らかすこの男は、一切の遠慮をしない。出されるがまま口に運んでいく。

セルトワ家という格式高い貴族の家に生まれ育った彼女は、自分よりも年上の人間が遠慮をしないという光景を、不快に思った。

「それにしてもあなた、よくもまぁそんなに食べられるわ……。見ていてあまり気分は良くならない食べっぷりね」

 見ているこちらが満腹だと言わんばかりに、ユリンカは首を振った。対するセシエレは、感心したようにヴィニを凝視している。

セシエレの故郷はティヴォール王国という、お世辞にも裕福とは言えない国である。そのためか、勢い良く食べ物を頬張っているヴィニに、同情や憐憫よりも共感を覚えていた。

「そんなに食べていなかったのですか、《シェラー》?」

 左手にパン、右手にはスープに突っ込まれたスプーンという、些か行儀の悪い姿勢のまま、ヴィニは動きを止めた。

「ヴィニ、だ。ヴィニ・ゲインズブール。――まぁ、ここ三日いや四日だったかな、ほとんど何も口にしてなかったんだ」

 咀嚼しながら、それでも器用に食べ滓や唾を飛ばさずに、ヴィニは笑った。一段落ついたのか、キエランが注いでくれたミルクを飲み干す。

「別に《シェラー》って呼ばれようが出来損ないって呼ばれようが知ったこっちゃないんだが――ヴィニって名前があるんでね。君も、ネィグロって呼ばれるのは不快だろう?」

 揶揄するように、セシエレに向かってヴィニは顎をしゃくった。セシエレの顔が、さっと朱を帯びた。

セシエレの民族であるティヴォール人は、シェルレアンやフレーベクといった大国から軽んじられ、奴隷として虐げられてきた歴史がある。彼らは、大陸神話の《黒い出来損ないの泥》を意味する、神に見捨てられた泥の人形をもじって、ネィグロまたはネィグロイスと蔑称で呼ばれることがある。

「そうですね。非礼を詫びます」

 セシエレの謝罪に、ヴィニは口の端を吊り上げる仕草で応えた。嗜める口調ではあったものの、彼自身はさして意に介していないようだ。

「神父さん、助かったよ」

 ヴィニは両手を合わせ、キエランに頭を下げた。

「困っている者を見捨てる真似はできません」

 キエランは笑い、そう返したものだ。ヴィニは満たされた腹を擦り、顔から笑いを消し去る。剣呑――とは違う彼の雰囲気に、キエランはおろかユリンカやセシエレも戸惑いを浮かべた。

「神父さん、礼がしたいんだが何か手伝うことないか? 一食の恩義って奴さ」

「手伝うこと、ですか?」

 キエランは、目を瞬かせた。

ヴィニの突然の申し出はありがたかったが、急に言われても困った。手伝ってもらうべき案件は特に浮かばない。いや、一つだけあるにはあったが、それは通りがかりの男に頼むにはあまりに信頼できなかったため、言い出せなかった。

「屋根の修理でも何でもするよ」

 ヴィニは相好を崩し、天井を指差す。いつの間に見つけたのか、彼の指した箇所は、確かに小さな穴が開いていた。

「あんな高いところ――よく見つけられるわね。目ざといのかしら、大した目だわ」

 ユリンカは、呆れ果てているのか感心しているのか判別しにくい微妙な表情で、感嘆する。言われなければわからないほど、見落としがちな場所だったからだ。

「セルトワのご令嬢に褒められるとは、恐悦至極って奴かな」

 ヴィニは底意地の悪い言い方で、ユリンカをからかう。初対面の人間、それも貴族に対するものではない横柄さに、彼女は頬をぴくぴくと痙攣させるも、義憤を鎮めて爆発させないよう努めた。

ただの軽口――そう、内心に言い聞かせる。だから、色の薄いぶっきらぼうな言い方になるのは、致し方ないだろう。

「別に褒めてなんかいないわよ、褒めてなんか」

 拗ねてしまった主に、セシエレは控え目に微笑を浮かべた。ユリンカがさっと彼女を睨みつけると、セシエレは何事もなかったと真顔を繕う。

「しかし万が一落ちて怪我でもしたら」

 あくまで心配を押し隠そうとしないキエランに、ヴィニは笑って答えたものだ。

「俺は身軽だから心配いらない。板と工具あるか?」

 ヴィニは立ち上がり、室内を見渡した。

相変わらず不躾な態度ではあったが、ユリンカも、それに目くじらをいちいち立てるのも馬鹿らしくなったのか、特に反応を示さない。ほんの短い間ではあるが、ヴィニの人となりを垣間見たせいもあるかも知れない。

「腹ごなしにすぐ終わるさ、大工仕事は不得意じゃないんでね」

 ヴィニは、工具を取ってきたキエランから工具箱を受け取ると、談話室から出ようとドアノブに手をかけ――動きを止める。

 彼の飄々とした空気が一変し、緊張感に抱かれる。それに気付いたセシエレは組んでいた腕を解し、険しい視線をヴィニにやる。信用はしていなかったが、やはり害をなすつもりなのか、と口に出さないでも目が物語っていた。

「どうかなされたので――」

 キエランが皆まで言うよりも早く、ヴィニの手から工具箱が離れ、床に叩きつけられる。盛大な音を掻い潜って、ヴィニは談話室の机の脚を持ち上げた。元々が安い木材で拵えられた貧相なものだ、軽々と宙へと上げられる。食器類が床に落ちる。その間、誰も動かなかった――否、一人だけ――セシエレは手刀をヴィニの首筋に当てていた。

「何のつもりです!」

 セシエレの強張る声に反応したのは、ヴィニの返事――ではなく、談話室の窓ガラスが喧しく割れる破砕音だ。

「―――――――!?」

 ユリンカは、瞬間的に目を瞑った。何かが彼女の前面に飛び出してきた錯覚を覚え、恐る恐る目を開ける。視界全面に広がっていたのは、木目の壁だ。だが、自分は壁を前に立っていなかったではないか? 談話室は石壁だったはず――では、これは?

 その疑問を彼女は音声にしてはいなかったが、応えたものがある。

ガラスを破砕し、風を切り、飛来した幾本ものそれは、ユリンカに届く前に、食卓机によって遮られる。

彼女を守る盾になった机を蜂の巣にしたそれは、何本もの矢だった。貧相ではあったが机に多少の厚みがあったためか、矢は貫通するまでには至っていなかった。

鏃が、自分の眼前で止まったのを目の当たりにして、背筋に寒いものが這い上がるのを知覚した。

「だ、大丈夫ですか、お嬢様!?」

 セシエレは手刀を納めると、ユリンカの元に駆け寄る。彼女の主は、目を見開いて呆然としたのも束の間、すぐさま瞳に光が戻る。

「大丈夫か、お嬢様?」

 ヴィニは笑いを張り付け、ユリンカに声をかける。彼女は肩を怒らせ、ヴィニにつかつかと歩み寄った。セシエレは慌てて主の腕を掴み、ユリンカの前進を阻止する。

「何をなさるのです、ユリンカ様! あの者は賊かも知れないのですよ!?」

「わかっているわよ、そんなこと!」

 ユリンカはセシエレを振り切ることはせず、それでも吊り上がった怒気を双眸に込める。

「何のつもり、あなた!? わたくしを殺す気!?」

 開口一番に飛び出されたのは、怒りの言葉だった。明らかにヴィニがやったことではないというのは明白だったが、他に怒りをぶつけられる相手がいなかったのである。彼がドア付近で合図を送ったから矢が襲ってきた可能性もあったし、ユリンカはとにかく抗議を一言言ってやらねば気が済まなかった。

しかしヴィニはそれには取り合わず、再び笑いを消し去る。

「静かにした方がいい。まだいるぞ、様子を窺っている」

 割れたガラスの破片を踏みしめながら、ヴィニは窓際に背をつける。外の気配を探っているようであった。

そのことに気付いたセシエレもヴィニの向かい側に立ち、気配を探す。

「確かに。――あなたのお知り合いか何かでしょうか?」

 セシエレの揶揄に、ヴィニは口を楽しげに歪め、

「殺るなら、とっくに殺ってるさ」

 とだけ、言い放った。

「それに――」

 ヴィニは、肩から力を抜いた。外にあった何者かの気配は、一瞬にして消え去っていた。失敗したのがわかり、即座に逃亡したのだろう。ならば、深追いする必要もない、と判断する。

「それに?」

 切った彼の言葉の尻を、セシエレは疑問に乗せる。

「俺にも狙われる心当たりがあるものでね」

 厭世的な雰囲気を塗したヴィニに、セシエレは呆れた素振りで、鼻で笑う。

「ま、どっちが狙われているかは――セルトワ家のご令嬢だと考えるのが自然なんだけどな」

 ヴィニは人差し指で、床を指した。その仕草で、ユリンカは何を暗に意味しているかを悟った。

「確かにここは帝都。あなたよりわたくしの方が狙われる確率は確かに高い」

 ユリンカの呟きに、灰色髪の男は同意を示す。

「神父様大変だ!」

 見計らったのかと錯覚してしまうほどのタイミングで、談話室の扉が開けられる。扉を開けて入ってきたのは、シェルレアン人特有の黒髪をぼさぼさにした十二、三才くらいの少年――。

「ステファン? どうかしたの?」

 血相を変えて入ってきたステファンに、ユリンカは優しく問い掛けた。ヴィニに対して隠そうともしていなかった刺々しさは、そこに全く介入していない。

「ユリンカ様! あ、ああ神父様! ニコラが大変なんだ!」

「ステファン、どうしたのです? 落ち着いて話しなさい」

 彼らの親代わりを勤める神父は彼の肩に手を置くと、しゃがみ目線をステファンに合わせた。キエランの優しげな瞳とかち合い、ステファンは興奮を少しずつ沈静化することに成功したようだった。それでも蒼ざめた唇は、わなわなと震えている。

「礼拝堂の椅子に寝かしているんだけど、とにかくニコラが大変なんだ」

 ステファンは言葉に出来ないもどかしさを、キエランの手を引くことに切り替える。ステファンに導かれるまま、ヴィニを除く一同は礼拝堂へと繋がる扉を潜った。

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