第一章③

 飢えていた。

 道端に転がった小石を、ニコラは思い切り蹴飛ばした。お腹が減って、どうしようもなかった。食事はきちんと摂っていたが、育ち盛りの身体では到底足りるはずもなかった。

「お腹空いたー……」

 言葉を漏らしても、誰も気に留めない。ここは優しい言葉とは無縁の場所だ。界隈に溢れているのはいずれも乞食同然の格好の者ばかりで、それはニコラとて大差はない。洗濯してはいるが、擦り切れた服――この場所では珍しくなく、それどころか小奇麗な方と言ってもいい。

 小石を蹴るのにも飽きたのか、ニコラは民家の軒下に蹲り、膝を抱える。お腹が空いてしまって、動きたくなくなったからだ。毎日の食事の時、神父様はもっとお食べと言ってくれるが、彼が緩やかに痩せていっているのは幼いニコラでもわかっていたから、神父様への恨みつらみはこぼさない。一人ぼっちでどうしようもない自分を拾ってくれた人だから。

 だから彼は、大きくなって神父様に恩返しをする気でいる。

 孤児院の仲間は、表で鬼ごっこをしている。とても気のいい友達で少年は彼らのことが大好きだったが、今日はそういう気分ではなかった。いつも一緒というわけでもない。

「おら、どけガキ!」

 いきなりの怒声に身を強張らせたニコラを、容赦のない一撃が襲う。

横っ面を思いっきり叩かれて、路面へ強かに頬を打つ。あまりの衝撃に、目に星が散った。

「ここは俺の場所なんだよ!」

 誰かの縄張りへ踏み込んでしまったらしい――ニコラは咄嗟に悟った。そして、自分に待ち受ける運命を想像して、顔が蒼ざめた。

逃げなければ――だが、恐怖に身体が動かなかった。

 ここは《ヴィッカー通り》――日を追うごとに酷くなる街だ。助けを呼んでも、人々は鬱陶しげな視線をくれるだけで、何もしてくれない。

 恐怖に竦む。ここは、だから。

「オォ!? 何だその生意気な目は――ぐぇっ!」

 再度ニコラを蹴ろうとした男は、奇妙な声を上げてその場に倒れる。目を瞑っていたニコラは、そろりと目を開ける。

「子供を虐めるのは、見苦しいね」

 綺麗な顔立ちの青年が、佇んでいた。

雨の雫に紛れて、銀色の髪が揺れている。身を包んだ純白の衣からは薔薇の芳香を喚起させる、陶酔してしまいそうな官能的な匂いが漂う。

 腹部と背中を押さえてのたうち回っている男の首にそっと手を添えると、青年は面白くもなさげな――穏やかすぎる口調で、そっと告げる。

「僕はね、見苦しい者が嫌いなんだ。だから――死ね」

 断罪。

 銀髪の男が毒の滴る笑みを浮かべると、ニコラに暴力を振るった男は苦しげな呻き声と共に手足から力が抜ける。そればかりか、男は今際の際にカッと目を見開いた。黒い瞳から溢れるのは、赤い液体――血だ。血の涙は、血の汗となり男の全身から噴き出る。もはや動かない彼は、真紅の液体に濡れ物言わぬ屍へと変わった。一瞬の出来事に、ニコラは心臓が止まりそうな心地を覚えた。

「大丈夫かい、坊や?」

 青年の瞳が、月色に光る。

自らを覗き込む不思議な色合いの瞳に、少年は釘付けになった。何て美しくて、透明な瞳だろう。彼は、今まで見たどんなに綺麗なものよりも――目の前に浮かぶ一対の月の美しさに、心を奪われた。安堵を覚え、拍子に腹が盛大に鳴る。

 青年はニコラの様子を見て優しく微笑み、懐から何かを取り出した。

「お腹が空いているんだね、坊や。これをあげよう」

 ニコラに差し出されたのは、携帯用に加工された干し肉だった。乾いているものの嗅いだこともない馥郁たる香りが、少年の鼻腔を突く。

眼前の、血塗れの吐き気を催すような光景よりも嗅いだことのない美味しそうな香りに負け、それをひったくるように取ると、ニコラは無心に齧った。

青年は気を悪くした風でもなく、少年の頭を撫でる。そして、今度は筒のようなものを出す。彼はそれを二つに割ると、上半分をコップにして下半分から液体を注ぐ。

「喉を詰まらせるといけないから、これをお飲み」

 琥珀のような澄んだ色合いの液体に満たされたコップを目にして、ニコラはふと手を止めた。神父様からいつも言われていたことを思い出したのだ。恐る恐る青年の顔を見やると、月色の瞳は穏やかな笑みを刻む。

「ありがとうござい……ます」

「君はきちんと礼が言えるいい子だね」

 青年はニコラの頭を再び撫ぜ、少年も嬉しそうに笑った。

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