第一章②

 黒塗りの乗用車は、程無くしてとある教会の入り口前に停車した。

 セシエレは降りると真紅の傘を開き、後部座席の扉を慇懃に開ける。冷たい雫から身を守る庇護の下、ユリンカは足を地につける。

 帝都の華やかな表層の裏に存在する、シェルレアン貴族の誰も見ようとしない暗黒街。

通称、《ヴィッカー通り》と呼ばれる区画だ。ヴィッカーとは、かつて帝都の裏社会を牛耳っていた人物の名で、皮肉なことにセルトワ家先代の次男に当たる。ヴィッカー没後、セルトワ家第二十六代目当主に着任した彼の兄スタニスラス・セルトワは、熱心にこの区画を訪問していたが、暗い部分を払拭するまでには至らなかった。

 ――お爺様がなされたことは、一体何だったのかしら。

 ユリンカは、誰にも聞こえない内心でこぼした。

そこかしこに見受けられる、不衛生な《ヴィッカー通り》の日常を目にして、不快感に頬を歪める。

「この孤児院は好きなのだけれど――相変わらずね、ここは」

 石段を上がり、教会の戸を開ける。扉は補修されておらず、金属部分は錆びたままで放置されている。セシエレは流水の動作で澱みなく、ユリンカを屋内へ誘導する。

「おお、ユリンカ様」

 声の方向に、ユリンカは丁寧に会釈した。エルヴァネス国教会の黒い礼服を着た壮年の神父――キエラン・ガードフだ。

ユリンカの祖父がセルトワ家当主だった頃に派遣された、エルヴァネス国教の宣教師である。スタニスラスと交流の深かった彼は、《ヴィッカー通り》に朽ち捨てられていた教会を改修し、孤児院を設立した。

「ご無沙汰しておりますわ、神父様」

「お久しぶりです、ガードフ神父」

 傍に控えたセシエレも、倣って会釈する。

キエランは困り切って、白くなった口髭を撫でた。ユリンカもセシエレも、彼にとっては親友の孫とその従者であり、また自身の孫のようなもの――あまり畏まられたとて、扱いづらいことこの上ない。

「ユリンカ様もセシエレさんも、どうか顔をお上げ下され。そういえば――今日は、ミハイルさんはいらっしゃ――」

「あ、ユリンカ様だ!」

 キエランの言葉に被って、数人の子供たちが駆け寄ってくる。いずれも、見たことのある顔ばかり――この孤児院に住んでいる子供たちだ。

キエランが設立した孤児院には、数は多くないものの、親のいない子供たちが住んでいる。神父は彼らを引き取り世話し、資金をセルトワ家――最も、現在はユリンカが私的運用できるほどの金額しか動かせない――が、負担している。

セルトワ家自体は、ユリンカが《ヴィッカー通り》の孤児院と懇意にすることを、あまり好ましく思っていないためだ。

「ニコラ、ステファン、ジョーイ、ミシェル、アニタ、みんな元気だった?」

 まとわりつく子供たちに、ユリンカは心底嬉しそうに表情を緩めた。幼い頃からセルトワの枠組みの中で育ってきた彼女にとって、この孤児院は唯一童心に返られる居場所だったのである。

「セシエレさん、少し宜しいですかな?」

 子供たちと歓談するユリンカには声をかけづらかったのか、傍で暖かい視線を送っていたセシエレに、キエランは矛先を向けた。神父の褐色の双眸に宿る真摯な光を見て、セシエレは居住まいを正す。

「はい、どうかなされました?」

「実は、最近暗い噂がこの界隈を賑わせておりまして――」

 キエランが言わんとしようとしたことを口にしようとした矢先、神父は再度発言を邪魔された。来訪者が扉を開けて、踏み入って来たのだ。

 ユリンカやセシエレ、教会の子供たちは一斉に扉の方向に顔を向けた。

普段、《ヴィッカー通り》の住人たちがこの教会を訪問することなど、ほとんど滅多にない。ここはあくまで孤児院だということを知っているからだ。誘拐するにしてもこの場所に住んでいるのは孤児――実益も見込めない。

「ここ、教会でいいんだよな?」

 一点を除いて黒一色の装いをした来訪者――ヴィニは、自身に集まった視線を意に介する風でもなく、訊いた。

「いえ、もうここは教会でなく孤児院――されど、あなたが当国教会に用がおありなのでしたら――」

 呆気に取られていたが気を取り直した黒い礼服姿の男――キエランの言葉を手で遮り、ヴィニは当惑したように、それでも傲岸不遜に頭を掻いた。

「腹が減っているんだ、良ければ飯を恵んでくれないか?」

 取り繕うでもなく、思ったままの欲求を口にした。

ヴィニの歯に衣着せない物言いに、子供に囲まれた貴族然とした少女――ユリンカの目尻が釣り上がる。

 彼女は、子供たちを優しくどかせ、ずいと前に出たものだ。セシエレが止めようにも、目で制す。セシエレは浅い溜息を吐き、肩をすくめる。主の無鉄砲さには、彼女も手を焼いていた。

「ちょっとあなた――」

「君はセルトワの人間か?」

 ユリンカの言葉の帳尻を取り上げ、ヴィニは口元を歪めた。ユリンカは目を見開き、跳んで退く。その動きはおおよそ貴族といった速度ではなく――どこか、剽悍さを感じさせた。

「何者です?」

 詰問の声は、ユリンカの前に立ったセシエレから発せられる。

主を庇うように、全身に緊張を張り巡らせ、目の前の男を睨みつける。立場上、身内に限らず、ユリンカを狙う者は多い。いかに家督継承権が低いとは言え、彼女はセルトワ家令嬢であり――要人なのだ。故に、セシエレは常に片時も彼女の傍を離れない。

 ヴィニは困って、灰色髪を掻き毟った。

「ああ、すまない。悪い。謝る。そういうつもりじゃない。この教会の前にセルトワ家の車が止まっていたから――君たちのものなのかと」

「どうかしらね。わたくしの命を狙う輩など、この帝都には吐いて捨てるほどおりましてよ」

 ヴィニは詫びたが、ユリンカとセシエレから緊張は抜けない。いつ襲いかかってきても対処できるよう、セシエレは全身の筋肉を撓めた。

「いや、だから本当に悪かったって」

 ヴィニは、ここで彼女たちと争う気はなかった。彼自身は、あまり物事を考えて話す性質ではない。思ったことがついそのまま表に出てしまうため、誤解を招きやすいのだが。

「ああ、俺はヴィニ・ゲインズブール。ただの旅人だ」

「怪しいわ、どこからどう見てもただの不審者だもの」

 ユリンカは、真顔でヴィニの自己紹介を切り捨てた。彼女は、思い込んだら突っ走る傾向がある。そのため、帝國内はおろか諸外国からも《セルトワの鉄砲娘》などと不名誉な呼び名で呼ばれている。

 ユリンカの失礼極まりない称号は脇に置いても、ヴィニの自己紹介は信用するに値しない。ましてや、この場所は《ヴィッカー通り》――泣く子も黙る、半ば自治区化している帝都の暗黒街だ。

「何が目的です? わたくしの身柄ですか?」

「お嬢様、何を真面目に訊いておられるのです!?」

「目的は、だから飯なんだって」

 セシエレは、ユリンカとヴィニの間に割り入るように立ち、いつでも攻撃できるように拳を胸の位置まで上げる。彼女は、武器を使わない。

「あなたは――《はぐれシェラー》ですか?」

 硬化したセシエレの声――値踏みしているのを隠そうともせずに、不埒な無法者を見やる。ヴィニは、うんざりしたのか盛大な溜息を吐いた。空腹が苛立ちを募らせはするが、それよりもやるせなさが脱力感を呼ぶ。

「そうだが――それが何か問題でも?」

《はぐれ》――妖精の民と呼称される《ディナ・シー》の中にあって誓呪を使役できない者、民族の掟に逆らい追放された者を、原初のはぐれ者シェラーの名を取り《シェラー》と呼称する。彼ら《はぐれ》は、《ディナ・シー》の追放者としてあらゆる人種から蔑みの目で見られ、このようなスラムに落ちぶれる者も少なくない。彼らの外見的特徴としては、《ディナ・シー》の眩いばかりの銀髪とは対照的に、残り滓の証であるくすんだ灰色の髪。《ディナ・シー》の、晴れ渡った夜空に浮かぶ月を思わせる金色の目とは違い、雲に隠れる褪せた月色の瞳が挙げられ、注視しないでも違いは一目瞭然だ。

「俺が《はぐれ》かどうか、そんなことはどうでもいいさ。俺は腹が減ったんだ。飯食わせてくれって」

 やる気のない素振りで、ヴィニは腹を擦った。

 完全に放置されたキエランと子供たちは、どうしたものか唖然としたままだ。キエランは我に返ると、ヴィニの言葉を口腔内で反芻した。

「宜しいでしょう」

 キエランは好々爺の笑みを浮かべ、ヴィニに歩み寄った。その様相を目で追ったユリンカは驚きに口をあんぐりと開けた。

「神父様!? そんな不用意に近寄っては危険です!」

「大丈夫ですよ、この方は後ろ暗いものを持ってはおりません」

 キエランは言い切って、ヴィニを手招きする。当のヴィニでさえも、驚いて目を丸くしたものだ。

「おいおい、神父さん正気か? 飯食わせてもらえるのはありがたいが――無用心過ぎはしないか?」

「ここは、このように荒れ果ててはおりますが元は神の家。助けを求めてきた者に食物を差し出すのは、仮にも神の教えを授かっているこの私の役目でございましょう。それに、私は些か人を見る目には自信があります故」

 そう言うと、キエランはにこりと微笑みを深くした。

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