第一章
第一章①
雨足は、休まる気配を見せない。
華やかな繁華街を抜け、閑静な住宅街を過ぎれば、荒廃した家々が立ち並ぶスラムだ。
どの大都市にも存在し、表と混在する暗部。
雨雲が不衛生な闇を濃厚にする中――黒塗りの車が一台走り抜ける。車輪が水溜りを跳ね飛ばし、泥と水の混ざり合う泥濘に濁っていく。風景は、灰色以外何も映すことなく、彩りは皆無に等しい。
黒髪の少女――ユリンカは車中、物憂げな面差しを変えようともせず、外を眺めた。
時折、空を覆い尽くす暗雲から洩れる儚げな光で、彼女の姿が照らされる。ユリンカの姿は、少女の艶やかさを際立たせた――華やかなものだ。
胸部に大小様々な花のアプリコットとレース模様が施されている臙脂のビスチェドレスに、高価な黒狐豹の毛皮で造られたボレロを模したジャケット。結い上げた黒髪、白磁の肌に整った目鼻立ち――大きく、隠し切れぬ覇気を漂わせる黒瞳を備えた相貌は、帝國のあちこちで見受けられるシェルレアン女性の中でも際立つほどに美しい、と評される部類に入るだろう。加え、少女の気品を全身に纏わりつかせている様は、一輪の穢れなき白百合を彷彿とさせる。中世の時代から市井で親しまれているセルリア人形を思わせる造詣には、紛うことなき生きた人間の生気が宿っており、美しさに躍動的な魅力を与えている。
彼女、ユリンカ・セルトワは、シェルレアン帝國における六大諸侯"シェルレアンの六貴"が一つ、セルトワの第四息女――通称、《セルトワの鉄砲娘》だ。
「雨、止まないわね」
ユリンカは、溜息を吐いた。
雨に濡れた帝都は、灰色と黒が混ざったような、陰鬱な表情を見せる。"法と花の都"と称されるシェルレスタに住む者の大半は、濡れた街に嘆息し憂鬱な気分を抱くことで有名であり、ユリンカもその一人だった。
荒れ果てた街並み――貧民街の現状も、ユリンカの気を殺ぐ原因の一つだった。スラム特有の澱んだ空気が、そこかしこで噴出している。出回っている劣悪な麻薬で中毒死する者や、貧困に喘ぎ犯罪に走る者も多い。どうにかせねばならないとは思いつつも、セルトワ家の四女という立場では、発言力も乏しい。
「セシエレ、まだ着かない?」
ユリンカは車窓に視線を固定したまま、運転手に声を掛ける。
バックミラーに映る運転手は、金髪碧眼の美女だ。タキシードにも似た、黒く滑らかな生地のスーツに豊満でしなやかな肢体を押し込んでいる。短く切り揃えた黄金の髪の下には、青く澄んだ宝石が二つ、意思を宿している。褐色に染まった肌の色から、彼女が大陸南方のティヴォール王国出身であることがわかるだろう。
彼女は、セシエレ。ユリンカ専属のセルトワ家使用人である。
「間もなく到着致しますが、どうかなされましたか、お嬢様?」
口調こそ畏まっているものの、セシエレのユリンカを見やる目線は、妹を慮る姉を思わせるほど優しい。
ユリンカの幼い時分より仕えていたセシエレは、セルトワ家四女にとっては誰よりも親しい友人でもあり、姉のような存在でもある。
「いいえ、何でもない。子供たちは元気かしら、と思って」
ユリンカは、口元を綻ばせた。今から慰問に向かう孤児院の、孤児たちの屈託ない笑顔を思い浮かべると、心が穏やかになった。
主の微笑をバックミラーで確認したセシエレは、目尻に柔和な笑みを刻む。嬉しさを隠し切れないような、そんな印象を受けた。
「そうですね、急ぎましょうか」
「……どうしてそんなに嬉しそうなの、セシエレ?」
運転手の表情が何故だか明るいのを見て、ユリンカは疑問を口走らせた。普段から毅然とした容貌を崩さないセシエレにしては珍しい、露骨な変化。
理由が幾つかユリンカの脳裏を過ぎり――その因が、自分の発した言葉にあると思い当たり、頬に朱が差す。
何かを言おうとして――いい言葉が浮かばなかったのか、ユリンカは口を噤んだ。セシエレはそんな主の様子に、ますます可笑しさと嬉しさを覚える。
「子供たちはお嬢様をお待ちかねですよ」
心持ち弾む声音で、彼女は加速板を踏む力を強めた。
再び、車内に沈黙が降りる。
その静寂は穏やかなものだったが、窓の外に広がる雨に濡れた街景に、ユリンカはやはり気落ちするのを隠せなかった。
「そういえば、気になったことがあるのだけれど」
「何でしょう、お嬢様?」
問いかけに時間を待たせることなく返ってきた返答に、ユリンカは黒髪の青年を思い浮かべる。彼女がどこかへ外出する時は、セシエレと同じく自分を護衛してくれる青年が、ミハイル・ディアレだった。今日はその姿が朝から見えなかった。
「今日は、ミハイルはどこへ出かけたのかしら?」
「ミハイルなら、今日はシェスタのお見舞いだそうですが」
「シェスタさんって、ミハイルの妹さんの?」
巧みにハンドルを切りながら、セシエレは頷いた。
ミハイル・ディアレも彼女と同じユリンカの従者で、病気がちの妹がいた。今日は週に一度の見舞いの日だから公務は外してくれ、と言われていた旨を、主に丁寧に伝える。
「シェスタさんも、早く元気になって欲しいわね。会ってみたいわ」
まだ見ぬ部下の親族を想像し、ユリンカは口元を緩めた。そして、思ったことをそのまま尋ねる。
「セシエレはシェスタさんとお会いしたことあるの?」
「ええ、何度か。お嬢様と同い年ですので、きっといいお友達になれると思いますよ。お嬢様とシェスタはよく似ておいでです」
「似てるって?」
「何をしでかすかわからないところ、と申しますか……シェスタも闊達な方ですので」
ユリンカは、セシエレの物言いにぷっと息を吹き出した。
「それは確かに、いいお友達になれそう」
ユリンカは何だか嬉しくなった。
「お嬢様、もう少しで到着致しますよ」
セシエレは、なるべく主の穏やかな表情を崩さぬよう、控え目に告げた。
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