プロローグ
プロローグ
「放っておいてくれないか?」
雨が降る音に、声が混じる。
耳までかかる灰色の髪を濡らした男は、褪せた月色の眼差しで眼前の男たちを見やる。朽ちた洋館の階段に、彼は腰掛けている。足下の土は水と混ざり、泥濘に変わっている。
「そうはいかねぇなぁ」
何がそんなにおかしいのか、彼を囲った柄の悪い男たちの一人は哂う。一人に対して四、五人はいる男たちは、いずれもニヤニヤと締まらない笑みを浮かべている。
その中の一人が、口を開く。
「お前、《はぐれ》だろ」
「それが何か、君たちに関係あるのか?」
ごろつきの一人の言葉に、彼は質問を返す。関心のない素振り。彼の眼窩に嵌っている月色の双眸は、自分を取り囲んでいる男たちに向けられてはいない。少し頬がこけてはいるが、整った顔立ちをしている彼の表情には、自分を囲む危機に対して何ら興味を抱いていない様子だった。
ごろつきたちは、彼のあまりの無関心さに苛立ちを隠せない。
「テメェ、《はぐれ》の分際ですかしこいてんじゃねぇよ」
ごろつきたちの凄みは、静かな月色に撃退された。目を合わせた者全てが呑み込まれてしまうかと錯覚してしまうほどに、彼の眼差しは零下の温度を保っている。
「ヴィニだ」
青年は、何を感じたか、不意にゆらりと立ち上がった。長身痩躯を、肩に飛びハリネズミの毛をあしらった黒いレザーコートが覆い、その手には細長い棒状のものを持っている。大人の男が両腕を広げたほどの長さもある棒状のそれは、薄汚れた白い布で簀巻きにされている。
「は?」
彼の言葉が理解できず、男たちは目を泳がせる。
「俺の名前は《
彼――ヴィニの声音には、何の色も塗られていない。よく通る声は、微かに怠惰の色を滲ませている程度だ。
「もう一度言うが、放っておいてはくれないか?」
髪に流れる雨の雫を無造作に払う。構えもせず、ただ雫を払う。その仕草すら、ごろつきたちには獲物を前にした肉食獣の、静かな威圧に感じる。
「テ、テメェ新参の癖に調子こいてんじゃねぇぞ!」
声をかける相手を間違えた、とごろつきの一人は内心思ったが、仲間たちの手前、強気に出るしかなかった。
「新参? ああ、そうか。ここは――」
大陸有数の大国家、シェルレアン帝國帝都シェルレスタ。通称、《法と花の都》シェルレスタ。華やかな印象が強いシェルレスタにも、暗部は存在する。ヴィニたちを取り囲む朽ちた建物、裏で出回っている麻薬に精神を犯され廃人同然に往来に座り込んでいる者、公館に所属していない街灯娼婦に男娼、怪しげな薬や宝石の類を売り捌いている者たち、飢餓に喘ぐ痩せた子供――ここは暴力と背徳が渦巻く、帝都の暗黒街。日を追うごとに酷くなる実情に、半ば放置されている始末だ。
「なるほど、確かに俺は新参だ」
合点のいった顔で、ヴィニは言った。あまりに軽々しい彼の様子に、男たちの調子が戻ってくる。何処の街のスラムにもよくある――先住者が何も知らない新参者に、ここのルールを教えてやろう、と余計なお節介を焼きに来たということらしい。そして、自覚しているが、ヴィニの容姿は目立つ。
「わざわざご苦労なことだ」
「そんな余裕ぶった態度見せても無駄だぜ。その成り損ないの髪の色に、目。テメェが何の力も持たない《はぐれ》ってことはわかってんだ」
「なるほど、だから俺に声をかけたってわけか」
ヴィニは、何の意図も伝わらせない表情で、男たちを眺める。レザーコートの袖から出た手は、手にした棒状の何かの布にかけられている。
「確かに俺は《誓呪》を使えないが――」
《誓呪》――この世界で唯一存在する世の理を捻じ曲げる魔法――。
ふぁさり、と布が擦れる音がする。ぬかるんだ地面に、白い布が落ちる。薄汚れているとは言え清潔の象徴である白は、瞬く間に泥に染まる。
布の下から現れたのは、鉄の棒――否、棒と呼ぶには少々幅がある。黒く塗られた鉄棒には、何かの切れ込みが微かに見え、鞘に納まった刃物であることが判別できる。
「見たところ、君らより腕は立つと思うが?」
ヴィニの口調は、さらりとしすぎていた。極当たり前のことを口にしているかのように――彼にとっては言葉通りの意味であったが――自然すぎて、男たちははじめ、ヴィニが何を言ったのか理解できないようだった。
彼らのきょとんとした姿を見て、ヴィニは微かに穏やかな笑みを貼り付ける。彼の描いた弧に、男たちはようやく言葉の意味に行き当たった顔を浮かべる。
ある者は、収まりの悪い黒髪が逆毛になりそうな勢いで、口角泡を飛ばしたものだ。
「オ、オイ! コイツ絶対俺たちのことをバカにしてやがるぜ! 構うこたねぇ、やっちまおうぜ!」
男が取り出したのは、懐に忍ばせた短剣と呼ぶには少々短いナイフ。
それを目にしたヴィニが、小さな口笛を鳴らす。
「君は相手の得物もよく見ない素人か?」
彼の嘲弄に、ナイフを持った男の頭には完全に血が昇る。
「テ、テメエェェェェェェェ――」
ジャックナイフを握り締め、男は怒りに任せて突進する。その動きには、欠片も理に適った技ともいうものが、一切存在していない。ただ、直進するだけの動きに、ヴィニは心底つまらなさげに息を吐く。相手よりも尺の短い武器を得物にしているのに、どうして真正面から突っ込んでくるのか。
「君相手に、これを抜くのも勿体無い話だな」
ヴィニは、軽快なステップを踏む。始点から右へ軽やかに跳ねる。最小限の動きには無駄がなく、降り注ぐ雨を潜り抜けているとすら、錯覚させる。ただ一瞬、男の右横をすり抜けただけ――ヴィニが動きを止めた間隙に、男が音もなく崩れ落ちた。交差する瞬間に、鞘の部分で男の鳩尾を強打したのだ。
「放っておいてくれる気になったか?」
男たちの目には留まらない早業に、彼らは一斉に色めき立った。だが、男たちは自暴自棄に陥ったのか、憤然と構え出した。法治都市として名高いこのシェルレスタの、法の届かないこの区画で生きている者としてのささやかな自負が、男たちから逃げるタイミングを失わせた。
相対する灰色髪の青年は、静かに溜息を流す。
「何だ、まだやるのか? 俺はあそこに行きたいんだ」
ヴィニは、顎で雨の向こう側を指し示す。そこには、古びた教会が灯りを漏らしている。
「あまり体力消費させないでくれ。腹が減ってるんでね。あそこなら、暖かいものでも食わせてもらえるだろ?」
「な、何言ってやがる!?」
「君らも、こんな得体の知れない男なんか構わずにさっさと帰ってくれると、俺は嬉しいのだが」
「ふざけやがって!」「ぶっ殺してやる!」「生きて帰すな!」「死ね!」
残った四人の男たちは異なる口から、さして意味の変わらない言葉を叫び出す。馬鹿にされた怒りがヴィニに対する恐怖を上回り、思いの外揃った動きで、鼻持ちならない男を取り囲む。こうまで馬鹿にされては、仮にも帝都の裏社会に生きている者としての面目が立たない。余所者から逃げ帰ったとあれば、いいお笑い種だ。
ヴィニは嘆息し、足下で伸びている男を指差した。
「彼をさっさと介抱してやったらどうだ? 別に殺したわけじゃない――というか、君らに殺すほどの価値があるとも思えないからな」
火に油を注ぐヴィニの言葉に、男たちのこめかみが痙攣している。
「いちいち癇に障る野郎だな。やっちまえ!」
男たちがこの生意気な口を叩く男に殺到し――ヴィニは、柔らかな動きで重心を低くした。力任せに殴りかかった男の懐に入り、ぴたりと寄り添うように見えた刹那、手にした、納刀したままの剣で横っ面を叩く。軽く叩かれたようにしか見えないその一撃に、如何程の膂力が込められていたのか。殴られた男は、凄まじい音を立てて大地に沈み込んだ。倒れてそれっきり動作を止めてしまった男の指が、小さく痙攣した。
ヴィニはにこりともせずに、自身の頭を指で小突いた。
「ここ、割れているかも知れないな」
残った三人が反応するよりも速く、ヴィニは次なる標的に歩み寄り、左拳で獲物の腹に拳撃を与える。怒りに身を任せていたものの、容赦なく倒された仲間に毒気を抜かれてしまい注意を逸らしてしまった男は、避けることすらできない。最も、万全の体勢であってもヴィニの動きについていくことすら怪しいだろうが。腹部を襲った重い衝撃は、男から呼吸を一時的に奪う。口をパクパクさせて喘ぐと、鉄の臭みに混じって酸っぱい味が口腔に充満し、男は自らの吐瀉物へとまともに顔を突っ込み、そのまま動かなくなる。
間髪入れずヴィニは、棒立ちしたままの男の足を軽く払った。足を払われた男は、抵抗する間もなく、地面に倒れ込んだ。
「喧嘩の途中だと言うのに、上の空は良くないな」
呑気とも思える声音で呟くと、倒れた男の顔面に蹴りを入れた。ブーツの先は金属で出来ており、爪先は男の鼻柱を、断りも入れずにへし折る。くぐもった苦悶がブーツの先から漏れ、足をどけると、顔面を血に染めた男は白目を剥いていた。
「後は君だけだが」
最後に残ってしまった一人に、月色の眼差しを向けると、男はその場にへたり込んでしまった。良く注視すれば、彼の顎が小刻みに震えているのがわかる。歯がガチガチと鳴り、巧く噛み合っていない。
「あ、あああああ……」
完全に戦意を失ってしまった彼は、言葉すら忘れてしまうほどに、怯え切っていた。まるで、蛇に睨まれた蛙そのままの様相だ。
ヴィニは無言で男に近寄ると、彼は後退しようと手を足を動かそうとする。だが、身体が麻痺してしまったのか、力なく砂利と空気を蹴り出すだけで、言うことを聞かない。
哀れみの視線すら浮かべずに、ヴィニは鞘を握り直し、柄頭で戦意を失くした男の額を撃つ。思いの外軽い音がし、星が散る感覚と強烈な痛みを伴って、男の視界が暗闇に落とされる。
「だから放っておいてくれって言ったのに」
気を失った男にそう言うと、ヴィニは後ろに目もくれず歩き出した。己の度量も弁えず、また他者の度量も見極められない小物には、すでに興味がなかった。最後の一人に手心を加えた一撃を与えたのは、特に意味のない戯れだ。
気がつけば小雨に変わっていたが、天から降り注ぐ涙は、灰色髪の青年の身体を濡らしていく。鬱陶しげに雨の中を縫い歩くと、程無くして朽ちた教会へ辿り着く。傍で眺めると、朽ちているとは言え、元々はさぞ豪奢な聖堂だったのであろう、と想像に難くない。
重く閉ざされた扉の上部にあるひび割れたガラスから、内部の灯りと何者かの歓談する声が零れ落ちている。中に人がいるのがわかる。
如何に裏寂れてしまい背徳と暴力に陵辱された街であろうと、教会は、尋ねてきた者を拒み、帰しはしない。――最も、教会がその機能を果たしていれば、だが。
「……ん?」
ヴィニは、教会内部へ続く階段の前に、一台の乗用車が止まっていることに気付いた。
「酔狂な貴族もいることだな」
漆黒に染め上げられたその乗用車は、一目で貴族の所有物であるとわかる。貧しさに喘ぐスラムの者ならば、到底手にすることのない高級車だからだ。最も、車――蒸気駆動車など、一般階級の者には手を出せる代物ではないのだが。
雨に撃たれながら佇む車の紋章を目にして、ヴィニは訝しげに眉をひそめた。
「これは――セルトワ家の紋章か」
銀細工で造られた楯状のエンブレムには、白百合の花に巻きついた白蛇の刻印が施されている。シェルレアン帝國の富を司る白蛇と、純潔を意味する白百合。その二つが絡み合った紋章の使用を許されているのは、《シェルレアンの六貴》と呼称される六大諸侯が一家、セルトワ家のみだ。
荒廃したこのような区画にはあまり似つかわしくない代物である。何故こんなところにあるのか、ヴィニは考えないことにした。貴族とは、あまり縁のない生き方をしていたせいもあった。貴族が貧民街を来訪していることなどよりも、自分が飯にありつけるかの方が遥かに重要だ。
「ま、いいか」
呟きをその場に残すと、雨に濡れた石造りの階段を昇り、ヴィニは錆びた金属製の扉に手を掛けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます