第一章⑨

《ヴィッカー通り》でも最も奥まった区画である周辺は、《ヴィッカー通り》以前の民家を再利用して住んでいる者も多い。帝都や帝國内での行き場を失くした者たちが集い、持ち寄った廃材等で街を形成しているのが《ヴィッカー通り》である。その最深とも言える場所に築かれた家々は、築何十年、百年単位のものも存在しているため、そこかしこが傷み朽ちているのが現状だ。

「何か臭うな」

 ヴィニは扉のノブに手をかけると、鼻をひくつかせた。ここは悪名高き《ヴィッカー通り》――腐臭や死臭は日常茶飯事に漂っている場所だ。何を言っているのか、とセシエレは胡乱気に灰色髪の男を見やる。

「気をつけた方がいいな。先客がいる」

 ヴィニはそう言うと、ノブから手を離し、戸を蹴り開ける。腐った木材で造られた扉は補修もされていないのか、ヴィニの蹴撃にあっさりと根を上げ、破砕音を立てる。

 家の中に踏み入ったヴィニの鼻腔を突いたのは、饐えた衣服の臭いに混じった血臭。

 床に、血痕が付着している。

しゃがんだヴィニはそれを掬い取った。

「新しいな」

 指先にべったりと着いた血は、床に落ちて間もないことがわかる。

「誰のもの――エレクトラ・シモーヌのものでしょうか?」

「それはわからないが、そう考えるのが妥当だろうさ。――っと」

 ヴィニは立ち上がると、何を思ったのか手にした剣を抜く。セシエレが身構えるよりも早く、何かが彼に向かって飛来する。鞘から刀身が全て抜かれる寸前に、金属音が耳元で響いた。襲いかかってきた刃を受け止めたヴィニは、襲撃者を横目で確認すると、心の底から愉悦を顔に刻んだ。

「気にせず、先に行ってくれ」

 後続したセシエレは無言で頷き、ヴィニを追い抜いた。

「ヴィニ・ゲインズブール……ッ!」

 驚愕の声を上げたのは襲撃者――暗灰色の外套を重ねて着ている人物のフードから零れ落ちた灰色の髪が、薄暗い屋内に同化した。

「口封じか。件の情報屋は知りすぎた。そういうことだろう?」

 ヴィニが皆まで言うよりも早く、襲撃者は刃を引く。外套の袖から伸びた短剣程度の刃物が、仄かな蝋燭の灯りを反射する。驚愕したのは一瞬――次の瞬間、フードから洩れた気配は明らかに歓喜である。

「怨敵ゲインズブール! キエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!」

 襲撃者の声は男だった。奇声染みた雄叫びを上げ、彼は身を沈ませる。対するヴィニは剣を受け止めた姿勢のまま、微動だにしない。好機と見たか、襲撃者は反動で跳び、刃を彼へと突き出し、

「甘いな、君程度の力量ではこの首は取れんよ」

 あまりにものんびりとした声音が流れてからの一連の動きは、襲撃者には視認できなかったに違いない。

ヴィニは一瞬の内に剣を抜き放つと、微かに両腕を弓形に逸らした。

たったそれだけの動きから繰り出された刺突は、恐るべき速度を伴い――正確に襲撃者の首を刺し貫く。悲鳴を上げようにも声帯ごと切り裂かれた襲撃者は、それでも標的を屠ろうと前進するも気だるげに身体をずらしたヴィニによって、刃を躱される。

「その意気やよし、しかし残念。君が思うよりも、俺はずっと強い」

 臥せる襲撃者に、ヴィニは笑みと共に吐き捨てる。

首から剣を引き抜き、血糊を拭き取る。

彼は先行したセシエレの後を追おうとして、首筋がちりちりするのを感じた。ある種の予感――懐かしさすら想起するのに苦笑し、ヴィニは小さく頭を振った。

 雷鳴が、帝都中に轟き渡った。

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