第一章⑩

 背後で始まった剣戟の音に、セシエレは振り返らなかった。

無気味に静寂に包まれた館内で、彼女を襲ってくる者は不思議といなかった。左右や背後よりも前――前方から、濃密な鉄の錆びている気配がする。

 大きな館ではあったものの、ほとんど崩れ落ち使い物になりそうな部屋は少ない。一方通行に近い通路を突っ切ると、扉がある。

誰かのいる気配が、その部屋から漂っている。

 静かに戸を開けると、彼女の視界には椅子に座った何者かがいた。

「何者です?」

 セシエレは、部屋の中央に座す人物に声をかけた。

今にも壊れそうな椅子に腰掛けたその人物は優雅な物腰で、廃屋と形容しても問題のないこの家には、恐ろしく歪だった。男か女かも判別しない。ただ、何かの香りが部屋中に立ち込めている。

薔薇水にも似た芳香に混じり、濃厚な血の匂いが立ち昇っている。

「答えなさい、何者です?」

 不可解で強烈な異質さに、セシエレは再度問いかけずにはいられなかった。腰掛けた人物の足下には女性が息も絶え絶えに転がっている。女性――では、彼女がエレクトラ・シモーヌだろうか。だとしても、何故彼女が瀕死の重傷を負わなければならないのか――女の傷は、薄暗さにあっても酷いものだと判別できた。

「君は――」

 朗々と響く男の低い声音が、セシエレの耳朶を撃つ。

身構えようにも、何かに魅入られてしまったかのように身体の動きが鈍い。辛うじて、指先を動かせる程度――褐色の肌を尋常ではない量の脂汗が流れ落ちる。

 男が話しかけてきた瞬間に、部屋そのものがどろりとした液体の中に放り込まれてしまったと思えるほどの、濃密な圧迫感――息苦しさを感じる。

「――セルトワの従者か」

 セシエレは、目を瞠った。男の発した言葉の内容よりも――一体いつの間に目前に佇んでいたのか。動きが、全く読めなかった。

男は、月色に光る眼差しでセシエレを静かに睥睨している。その眼光は、この場所が襤褸屋であるが故の、退廃的な美しさを漂わせている。

宙を走った雷光に、男の髪が銀色に煌いた。髪に隠されていた顔が、露わになる。端整に造形されたと言っても過言ではない男の顔に、セシエレは目を疑った。

「あな、た、は……?」

 驚愕が、セシエレの口を突き破る。稲光に照らし出され爛々と光る月色が、底冷えするほど冷淡に、彼女を射抜く。

 それは、衝撃だった。

「この女に、何か用かい?」

頭の中で様々な考えが渦巻くが、触れられるほど近くで立つ男に該当する名前は、セシエレの知り得る限り一つしか当て嵌まらなかった。だが、彼は自分より後ろにいたはず――彼が、エレクトラ・シモーヌと思しき女性を害する理由も見当たらない。

自分の与り知らない事情が交錯しているのか、それともやはり、彼は信用の置けない人物だったのか。

目の前の男が放つ、薔薇の芳香を模した威圧感に、口の中が渇いていくのがわかる。

「――ヴィニ・ゲインズブール!」

 掠れた声は誰のものだったか。

激しさを増した雨音に混じり、部屋を駆け巡ってセシエレの耳に届いた。

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