第二章⑤
「確かに腕は上げたが――まだまだだな、ルジェ」
軽口を叩きながら、ヴィニは掬い上げるようなルジェの一撃を、打ち下ろす形で強引に捩じ伏せる。今までが柔の捌きだとするならば、急に剛の動きへ切り替えたのだ。その変化にルジェはついていけずバランスを崩しかけるも、何とか踏み止まり再度刃を向ける。
立ち上がったセシエレはその様相を見て、ヴィニの抜きん出た剣技と体捌きに、低く唸る。
彼女の得物は刃物ではなく、拳――ヴィニと切り結ぶルジェという男の動きを見る限り、体術においてはルジェの動きを捌く自信はある。にも関わらず、初めてルジェと相対した時全く身体が動かなかった。
「――あれが、《誓呪》というものですか」
彼女自身、《ディナ・シー》の扱う不可思議な術を直接見たことはない。一睨みしただけですくんでしまう――確かに、熟達した武人は存在感だけで相手に踏鞴を踏ませることはできよう。しかし、金色の月光を溶かしたルジェの瞳はもっと歪であり、まさに魔技と形容するに相応しい禍々しさを伴っていた。
それに、足元に横たわる女性の命を奪った技――思いを巡らすうち、再三にわたる刃を悉く凌ぎ切ったヴィニから、ルジェが離れた。
「それの腕だけは、確かに一族随一だったね――ヴィニ。君に並ぶ者は誰一人としていなかった」
「何、代わりに君には《誓呪》があるだろう? 制約なんてものがない――無敵そのものの《誓呪》が」
刃を肩で寝かせ、ヴィニは意地悪く口の端を吊り上げた。
対するルジェは、そんな彼の様子に心底忌々しそうに舌を打った。
「――よく言う。僕のあれは、君には届かない癖に。現に――僕の張った結界は、君の介入によって決壊してしまったじゃないか」
「そいつは悪いことをしたが――このお嬢さんは、俺の先輩なんでね」
ルジェは、牽制するように睨み付けるセシエレをつまらなさそうに流し見、再び視線をヴィニに戻した。
「なるほど、君はセルトワの後ろ盾を手に入れた、というわけだ?」
「そんな大層なものでもないさ、一時的らしいからな。――ところで、一つ聞きたいんだが、君は《エリクシール》の中和薬を持っていないか?」
「中和薬? ああ、あれか。ククク、《エリクシール》とは――フ、フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
ルジェは言葉を区切ると、いきなり身体を仰け反らせ、大声で笑い出した。その常軌を逸した笑声に、ヴィニとセシエレは胡乱げに眉をひそめた。
一頻り笑うと、ルジェは銀色の髪を掻きあげるようにして、額を押さえる。指の隙間から、まだ笑みの消えない月がヴィニを見据えた。
「これはいい。ヴィニ、君は何かを勘違いしているようだね。中和薬――中和薬か。これは面白いな」
「どういうことです? あの――結晶となっていた死体と何か関係が……?」
セシエレは切迫した声で問いかけ、異様な死体を思い出し、舌に乗せる。それは決してルジェへの疑問ではなかったが、彼は興味を抱いた瞳で彼女をちらりと見ると、
「君はなかなか察しがいいな、セルトワの従者殿」
「ルジェ――まさか、あれを完成させたのか?」
捻り出されたヴィニの言葉に、ルジェは再び笑声を爆発させる。
「これはこれは、君も察しがいい。そういうことだよ――最も、君の知っているそれがどれほどのものかは知らないけれどね。――おっと、そろそろ時間だ。こう見えて、僕はなかなか忙しい身でね。では、失礼するよ。ヴィニ、君を殺し損ねたが――どうせすぐに会えるさ。君が、彼女らに肩入れする限りは」
ルジェの全身を、赤い霧が突如纏わりつく。
収縮するように現れたそれは、女性の死体の周囲にわだかまっていた血溜まり――血煙は、何の音も立てずにぐるぐると、宙でとぐろを巻いた。
「逃がすわけにはいかないな、ルジェッ!」
ヴィニは吼え、剣を赤い霧に突き出すが、何の手応えもなく――そればかりか、ルジェの気配は忽然と消えていた。全く悟らせることなく、文字通りルジェの姿は霧散していたのだ。
ヴィニは、徐々に赤い海に還元していく霧から刃を引き抜くと、鞘に納める。
追おうとも、ルジェは《誓呪》を使用してこの空間から逃亡したに相違なかった。さすれば、徒歩で縋ったところで追いつけはしないだろう。
「逃がしたか――こんなところで再会するとは夢にも思っていなかったが」
「今の男――あなたと顔見知りのようでしたが、一体何者です?」
セシエレは訊ねながら、息絶えた女性のところへ歩み寄ると、小さな変化を目聡く見つけた。
微かに驚愕した彼女の風体に、ヴィニは言わんとした問いかけへの答えを飲み込む。
「ヴィニ殿――」
「――あぁ、敬語もそうなんだが敬称もいらないさ。君は俺の先輩だ、呼び捨てで構わない」
ヴィニは苦笑し、律儀な先輩に軽口を叩く。しかし、死体の一点に釘付けになっているセシエレには聞こえていないようだった。
「これを見て下さい」
「彼女がエレクトラ・シモーヌ? 血溜まりに沈んでいたにしては綺麗過ぎるな……いや待て、傷がない」
セシエレは頷き、死人の腕を軽く持ち上げた。もう老婆と形容してもおかしくない女性の痩せ細った腕に、ヴィニは露骨に顔をしかめた。
彼女の全身から抜き取られたとも思える血の量からして、全くの無傷とは考えられなかった。だが、死体には掠り傷一つついていない。それどころか、女の死体にも先刻目の当たりにした結晶化が見られた。
「――固まりはじめているな。結晶になる、か。俺は聞いたことがないが、もしかしたらルジェなら可能なのかも知れない。あいつは、《誓呪》を使うためだけに生まれてきた人間だから」
彼は呟き、思案顔で顎に親指を添える。
「それはどういう……いえ、それよりもあのルジェという男は、何者ですか?
我々の与り知る《誓呪》とは、このような不気味な代物ではありません。確かに謎めいた不気味さは想像としてありますが――もっと、単純明快なものです。少なくとも、このように無傷の相手から血を抜き取るような、そればかりか人の身体を結晶にしてしまうような話など……聞いたことがない」
「ルジェは――」
微かに、ヴィニの瞳に何かが吹き抜けた。
それは、失った遠くを見つめる郷愁にも似ていた。
「俺の、影さ」
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