第二章⑮

「囚われの山羊姫に、失礼だろうシフ・ジフ? ユリンカ・セルトワ、許して欲しい。彼女は俗に塗れているからね」

 引きつった様相のユリンカを見かねてか、ルジェが口を挟む。山羊姫――シェルレアンに広まる童話を比喩しているのだろうか、とユリンカは思った。

『小さな山羊姫』という、中世からシェルレアン国民に親しまれている童話――その意味するところは、『報われぬ死』だ。

――人と触れ合うことなく、一頭の小さな雌の山羊と共に山で暮らす心美しい少女カペラはやがて気味悪がられ、謂れなき理由から村落で迫害され、孤独のまま死んでいく。しかし、彼女の愛を一身に受けて育った雌山羊は共に天に昇り、一時もカペラの傍を離れなかった――。

シェルレアンにあって『山羊姫』とは、報われないもの、儚いもの、といった意で使用される。

「あなたは多少、教養があるようね」

「美しいもの――こと、悲劇が僕は好きだからね。セルトワの令嬢にお褒めに預かるとは、光栄の極みだね」

「はッ! これだから貴族のお嬢様は好きになれないんだ。お前、自分の立場がわかっているのかよ?」

 シフ・ジフは表情の不明瞭な顔を鉄格子に近づけ、ユリンカを覗き込む。

 仮初めの皮膚のものだろうか、薬品の匂いが鼻につく。

 彼女は、つるりと頭を撫でた。醜悪に唇を歪ませる。何がそんなに可笑しいのか、嘲笑を隠そうともしない。

「怖いんだろ? オレの顔が。そら、怯えた顔見せてみなよ。くく、くくく」

 ユリンカは、唇を噛んだ。

 初めに怯えたのが良くなかったのかも知れない。明らかに卑下され、あまつさえ脅えを愉悦の肴にされている。

 それが、たまらなく悔しかった。

 だから彼女は、逃げることなくシフ・ジフを凝視する。

「黙りなさい、狼藉者。わたくしは、あなた方のような存在には屈さない。助けを待とうだなんて思わない。わたくしがこの手であなた方に引導を渡して差し上げるわ」

 スカートの裾をグッと握り締める。白魚の指が、義憤で桃色を塗される。

「ふふ、ふはははははは! 面白いこと言うねぇ、さすがお嬢様だ」

 シフ・ジフは盛大に笑い声を破裂させ、不意に真顔に戻り――鉄格子を思い切り蹴りつける。

 耳障りな音にユリンカは顔を微かにしかめたが、矮小な変化だった。気付かないシフ・ジフは、ガンガンと鉄格子を蹴りつけ揺らし、ユリンカのすぐ横に唾を吐き捨てた。

「美しいな。お前は美しいよ、ユリンカ・セルトワ。――だが、教えておいてやる。オレの嫌いなものは、美しい女だ。そして何より嫌いなのは、美しく気高い女だ。全く……虫唾が走る、吐き気がするね、オエッ」

 シフ・ジフは、嘔吐する素振りを見せる。

「落ち着きたまえよ、シフ・ジフ。君も虐め甲斐があるだろうが、彼女はゲストだ。些か不本意な扱いをしているけれどね。ユリンカ様も、あまりシフ・ジフを刺激しないで下さると嬉しいのだけれど」

「ゲストですって? こんなじめじめと暗い石牢に押し込めておいてよく言うわ。あなた方の望みなんて知らない、叶えるつもりもない。わたくしは早く帰ってやらなければいけないことがあるの」

「やらなければいけないこと? ああ、ニコラだったかな、あの少年の名前は?」

 さり気なく織り交ぜられたその人名に、ユリンカは表情を凍らせる。

 ――今、この男は何を言ったのだ?

 聞き逃してはいけないはずのそれが、巧く頭に取り込めない。

「あなた――」

 言葉が続かない。

 ルジェの瞳を覗き見た瞬間、魅入られてしまったかのように、時が止まる。

 全ての音が消え失せ、呆然となる。

凍結してしまった空間は、とても冷ややかで生きた心地がない。

 何が起こったのか、全く知覚できなかった。

「そうだ、麗しき山羊姫の君に一つだけ教えてあげようか。《ヴィッカー通り》に薬だっけ? あれを蔓延させたのは、僕なんだよ」

 ルジェの言葉だけが、わんわんと頭の中で響く。その意味に愕然としながらも、身体が意識に従わない。

 急速に視界が黒に狭まっていく。

 ただ、確信したことがある。

 これは、魔性だ。あるいはこれが、《誓呪》というものなのか。

 逃れ得ぬ巨大な手に、身体ごと鷲掴みにされている錯覚。

 逃れられない、と刷り込まれるほどの圧迫感。

「あの方がお見えになるまで、しばらく眠っていてくださいな。それでいいだろう、シフ・ジフ?」

 ぷつり、と意識が途切れる刹那――。

実に楽しげな暗い声が、薄暗い牢に響いた。

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