第二章⑭

 悪意滴る笑みをこぼし、ミハイルは鉄格子に指を掛ける。

 ユリンカは、よく知る部下の顔を睨みつけた。彼の表情から、普段慣れ親しんだはずの友好さは、微塵も感じられない。

「ミハイル――いかなる理由があるかもわたくしにはわからない。わたくしを捕らえる側にあなたが回っているのがわからないけれど……見損なったわ。仮にも、このユリンカ・セルトワを守護する者として。我がセルトワ家に連なる者として、誇りはあったのだと思っていたのに――いいえ、その気高さをわたくしに教えてくれたのは、ミハイル。あなただと言うのに」

 真正面から敵対者を見据え、ユリンカは辛辣な毒を吐き捨てた。

 彼女の毒を放射された本人は、笑い声を破裂させる。

「あは、あははははははは! これはいいな、さぞ本物のミハイル・ディアレも喜ぶだろうよ」

 ミハイルの声とは似ても似つかない、潰れた薄気味悪い声音が、青年の口から漏れる。今までユリンカが聞いたこともない、不可解で不快な音色。

 話す声の抑揚のなさに、笑声が混じり合う――薄暗い牢によく似合う、地獄に棲まう悪魔の雄叫び。

 決して大きくなかった声は、石造りの壁や床に反響し、さらに虚ろを石牢に運び込んでくる。

「彼女をからかうのもそれくらいにしておきなよ、シフ・ジフ」

「何だよ、焚きつけたのはお前だろう? ちょっとくらい遊ばせろよ」

 苦笑混じりにたしなめるルジェに、ミハイルは不平を漏らした。

 二人の会話の意味がわからず頭に疑問符が浮かぶユリンカに、ミハイルは人差し指を唇に押し当てる。

 全く、理解不能だった。

 鉄格子の対岸で笑っているのは、自分が長年親しんでいたはずの部下の顔だ。見間違えるわけがない。

 それなのに、目が馴れてくると見慣れない者を前にしているかの如き感覚を抱く。裏切られた、と思ってしまったからだろうか?

 ニヤニヤと嗤笑を刻む部下は、普段浮かべもしない下劣な表情を貼り付けている。

 ――全く、わけがわからない。

 性質の悪い悪夢に迷い込んだか、と錯覚してしまえるほどに。

 彼は――自分の目の前にいる、ミハイル・ディアレは何者なのだろう?

「あなたは――誰?」

 ようよう搾り出した言葉に、ミハイルは満足そうに頷いた。

「やっとだよ、このお嬢さん。いいかい、オレはね――」

 ミハイルは、自身の顎に右手を添える。

 指が皮膚に食い込む。掴まれた皮膚が、嘘のようにぶよぶよと弛みはじめた。

「ひっ!?」

 おぞましい光景に、ユリンカは小さく息を呑んだ。深窓の令嬢の怯える眼と悲鳴に、ミハイル・ディアレは哄笑を爆発させた。

「くく、くははははははははははは! イイ声出すね、お嬢様? もっとだ、もっとイイ声聞かせてくれよぉ!」

 ぺりぺり、と机に貼り付いてしまった羊皮紙を剥がす時にも似た音――弛んだ皮膚がシェルレアン青年の指を起点にして、捲れていく。

 何て異様。

 何て醜悪。

 何て歪。

 生まれて初めて接する、人の顔から皮膚が剥がれていく様――ユリンカは目を背けたくて、目蓋を閉じようとする。

だが、何故か閉じられない。それどころか――。

「ど、どうしてっ!?」

 見開いてしまう。

 どうしようもなく、目を抉じ開けてしまう。

 見たくない――こんなおぞましいもの見たくない。

「滅多に見られない光景だぜ、よぉく見ておきなお嬢様? 失神なんて勿体無いことするなよなぁ? ふははは」

 牢の奥に逃げようにも、足が動かない。

 硬直してしまい、腰から下が、石から生えてしまったかのよう。

「怖いか、お嬢様、オレが怖いか? イイ顔だな、あはははははは!」

 嗜虐的に声を引きつらせ、ミハイルはゆっくりと、見せ付けるように皮膚を捲り上げていく。たぷん、と宙に曝された部分から黄色染みた液体が滴を作り、床を叩く。

 充分に時間をかけて、彼は顔面を剥ぐ。

「え……?」

 拍子抜けしたように、ユリンカは呆けた声を漏らした。

 下から現れたのは、印象に残りそうにもない――強いて言うのであれば、爬虫類の如き白々しい面だ。

病的に白く透けたその顔は、一見するだけでは男女かどうかもわからなかったが、注視すれば女性らしい繊細さがあった。ただ、特筆すべき特徴が何もない。もしも街中で通り過ぎたならば、十中八九、記憶の底に埋没してしまいそうな人間。

美も醜もない、顔。異様なのは、顔面に毛がないことだ。髪を除いて、眉も睫毛も見られなかった。それが、蛇のような印象を与えるのかも知れない。

「失礼なことを抜かしやがる前に言っておくが――オレは女だぞ、女」

 彼女は剥いだ仮面を地面に投げ捨てると、びちゃり、と湿った音がした。次いで、シェルレアン人特有の黒髪に手を伸ばす。

 ずるっと髪が床に落ちる。

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