第二章⑬

 頬に水が滴る。

 冷たい感触に、否応なくまどろみから引き剥がされる。

ずきずき、と全身が痛む。

苛む苦痛を堪え、ユリンカは周囲を見回した。

冷え切った石畳、自分の顔と同じくらいの小さい窓から、月明かりが差し込んでいる。遠くの方で、犬か狼か、獣が吼えているのがくぐもって聴こえる。

天井にも壁にも灯りなどなく、月光に照らされた無骨な鉄の棒が幾条にも張り巡らされ、自分に無言の脅迫をしているかのようだ。

全く見も知らない場所だった。

――どこなの、ここは?

自分の状況もわからなかったが、頭に冷気が当たると否応なく冷静さが戻ってくる。

明確な牢に入れられているのは判別できる。

着ているものは、記憶にあるものと同一だった。

自分が何者かに襲われ、意識を失ったことを思い出す。

瞬時に、囚われていることを自覚する。

――どこ、ここは? ミハイル、ミハイルはどこ?

随行者――ミハイル・ディアレの姿は見えない。

「おや、お目覚めかい? セルトワの姫君」

 声を出したつもりなどないのに、応える者がいた。

壁に据え付けられた蝋燭の仄かな明るさの中、石造りの廊下に殷々と声が響く。

 楽しげに揺れるその声に、ユリンカは既視感のようなものを覚える。確かに、聞き覚えのある声。

「……誰?」

「随分と眠っていたようだね、ユリンカ・セルトワ」

 軽快に石畳を叩く足音に続き、薄暗い橙の光を伴った人影が現れる。微かに香る、薔薇の芳香。

はっきりと輪郭を持った顔に、ユリンカは微かに声を漏らす。

 その声は、どうしようもなく掠れている。しかしはっきり、とその名を口にする。

「ヴィ、ニ?」

 彼は、くっくっと肩を震わせた。

ユリンカの反応が可笑しくて堪らない、といった趣きだ。

「君も、同じ反応だ。く、くくく。面白い、やっぱり僕と彼は似ているようだ。間違われるほどにね」

 月に映える銀髪をかき上げ、彼――ルジェはユリンカに笑いかける。

「どういう、こと?」

 頭の中にほつれた糸が幾重にも絡まって、現状を理解できない。確かに、ユリンカに新参の部下と同じ声で話しかけてきた男は、ヴィニ・ゲインズブールの容姿をしている。

違うのは、ヴィニの着用していた漆黒のレザーコート――目の前の男は、純白の外套を羽織っている。儀礼用の式服にも似た代物だ。

 彼の言葉を心で反芻すると同時に、観察する余裕がほんの少し生まれる。

 よくよく見れば、髪の色はくすんだ灰色ではなく、眩い銀月を溶かし込んだ彩りをしていた。

《ディナ・シー》――自然と、その単語が浮かぶ。

「残念ながら僕は君の騎士ではないよ、ユリンカ・セルトワ。そうだね、自己紹介をしておくのも悪くないな。……僕の名前はルジェ。初めまして、麗しきご令嬢」

 鉄格子の向こう側で、ルジェは慇懃に会釈する。

「……ルジェ?」

「そう、僕の名前はルジェ。あまり気に入っている名前ではないから、覚えてくれなくても構わないけれど。僕の名前なんかよりも、気分はどうだい、ユリンカ様?」

「ここは、どこ? ミハイルは? 《シェルレアンの六貴》たるセルトワを誘拐してどうするつもり? あなたの目的は、何?」

 得体の知れない男に対する恐怖を捩じ伏せ、ユリンカはやや震える声音を、気丈にもルジェにぶつける。

「ここはシェルレスタの郊外だよ。ミハイル・ディアレは、よく働いてくれているね。もうすぐ戻ってくるんじゃないかな。……ほら」

 ルジェが後方に視線をやると、ユリンカはそれに釣られた。

「――ミハイルッ!?」

 ユリンカは、我が目を疑った。

 通路の奥の方、暗闇からぬっと出てきたのは紛れもない、ミハイル・ディアレだったためだ。彼は、迷うことなくこちら側へ歩み寄ってくる。

 己と同じく捕らえられたのならば、拘束されているはず――縛り付けられているわけでも、手錠を掛けられているわけでもない、自由な姿。

服に、怪我でもしているのだろうか――煤汚れみたいに、血糊がこびりついている。

「首尾はどう? ちゃんとやれたかい?」

 ルジェは楽しげに、ミハイルに訊ねる。

 問われた者は、ことさらに表情を消したまま、頭を振った。

 ユリンカは、様々な考えを演算するが、一向に解答は弾き出されない。目前で繰り広げられる会話に、疑念すら霧散していくかのようだ。

「失敗だ、妨害されたんでな」

「……困るね、僕の立場というものも鑑みてくれたまえよ。ただでさえ、あちらは功を焦っておられるし、何より信用されていないようだからね。僕につけられた首輪である君が、その証拠だろう?」

 芝居めいた口調で不平を漏らすルジェは、言葉の内容とは裏腹に、心の底から愉快そうだった。

 彼は、ユリンカから視線を外さない。薔薇の香りの中に佇むルジェの眼差しは、どこまでも深く虚ろだった。

 虚無、という言葉が脳裏に浮かぶ。あるいは飢餓か。

どれほど求めても満たされない、と錯覚してしまいそうなほど、彼から放たれる月光は暗く冷たい。

 彼女は居心地の悪さを覚え、つい、と俯く。

「これはこれは。かの《ディナ・シー》の盟主様のお言葉とは思えない弱気さだこと。案ずるなよ、次はやるさ」

 にぃ、とミハイルは口の端を吊り上げる。彼の視線の先には、胡乱気に眉根をひそめるユリンカがいた。

「これは、お嬢様。ご機嫌麗しく」

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