第二章③

「お、お兄様?」

 ユリンカは、耳を疑った。

エルンストは軽薄と無関心を全身に塗り込んだような性格で、味方はおろか、兄が彼女を鑑みたことなどこれまで一度もなかったからだ。ルフェルトの補佐、という役割で《帝騎警》に在籍してはいるが、昼行灯といった風体で、いつも遊び歩いている。社交界でも、あまり評判はよろしくない。

「それはならんと言ったはず。少なくとも、現時点では《帝騎警》を動かす確固たる動機がない。いかに《ヴィッカー通り》が無法の地とて、おいそれと我らが動けば後々の紛糾に繋がるのは明白。――それとも何か、動かさねばならない明確なものがあるのか?」

 頑なに、ルフェルトは言い募る。頑迷が服を着た長兄は、妹を再度見据えた。

「――ユリンカ。お前が幼少の頃から《ヴィッカー通り》を贔屓しているのは知っていたが、何故そこまであそこにこだわる?」

 それは、ただの疑問。

セルトワ家という、帝國にあって最たる有力者集団たる《シェルレアンの六貴》に属する人間が、卑しい下々の住まう最底辺の地区に目をかけるという心情を理解できないのだ。無論、ルフェルトとて帝都及び帝國をより良くしたいと思っているが、ユリンカの行動はどうにも解せない。

《ヴィッカー通り》とは、貴族から見捨てられた区画なのだから。

「わたくしは――」

 気持ちを確かめるように、ユリンカは言葉を吐き出す。兄から発せられる無形の威圧感に挫けそうになるのを、無理矢理に捩じ伏せる。

「ただ、あの場所に笑顔を咲かせたいだけ――ただそれだけです」

 少女の言葉には、決然たる意思があった。

「スタニスラス卿と同様のことを言う――祖父上の悪いところに毒されたか」

 ルフェルトが控え目に落とした一言は、ユリンカの顔に朱を差した。

「お兄様!」

「すぐに熱くなるところ――直情的で周囲を省みないことがお前の悪いところだな、ユリンカ。情に流されればろくなことにならぬことくらい、お前も知っているだろう? 祖父上は確かに偉大な方だった。――だが、情に厚すぎたのが命取りになったことをよもや忘れたわけではあるまい?」

 ユリンカは唇を噛んだ。

――忘れるわけはない。

至上の尊敬を抱いている祖父スタニスラスが亡くなったのも、こんな雨の降る憂鬱な日だった。シェルレアン貴族の中でも随一と言われるほど人情家だったスタニスラスの死因は、暴漢による撲殺だった。

「祖父上はよくしていたはずの貧しき者どもに肩入れしすぎた挙句、殺された。あそこにこだわるのもいいがユリンカ。結局馬鹿を見るのはお前だ。あまり深追いするな、《ヴィッカー通り》のことは、気にしすぎるだけお前にとっても損だ」

 ルフェルトは、矢継ぎ早に言う。

祖父の話を引き合いに出され、ユリンカは何も返すことができなかった。

俯いた彼女が顔を上げた時、唇から血が一筋流れ落ちる。握られた拳が、爪に皮膚を破かれんとするまで白む。

 幼き故の崇高ささえ漂わせる瞳で、ユリンカは、口を真一文字に引き締めた兄を睨みつける。

「失礼を申し上げますが、わたくしはお兄様を見下げましたわ。お兄様にはもう、頼みません。わたくしはわたくしなりにやってみせます。元より期待はあまりしておりませんでしたが、はっきり致しました。――お兄様の手を煩わせようと考えていたわたくしが浅はかでしたわ」

 それは、表明だった。

傍観していたエルンストは口笛を吹き、楽しげに手を打ち鳴らす。

「もう無駄ですよ、兄上。こうなったらユリンカは言うことを聞かない。こいつが何故鉄砲娘などと呼ばれているか、そのわけはご存知でしょう?」

 長兄は溜息を吐き、妹の目を真っ向から射抜く。しかし妹は、兄の威圧的な視線から決して目を逸らさない。

 ユリンカは落胆に息を吐くと、踵を返した。

「それでは、長居は無用――わたくしはこれで帰らせて頂きます」

 ユリンカはミハイルに目配せをし、ドアのノブを握る。ミハイルが主の後に続こうとした時、彼を呼び止めた者がいる。

「何か、エルンスト様?」

 エルンストに歩み寄ったミハイルの耳に、エルンストは何事かを告げた。

ユリンカはその様子を見ることもなく、戸の向こうに消え――幾秒かの逡巡の末、ミハイルは微かに頷いた。

「――では、失礼致します」

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