第三章④

 ――アンザース城。

 シェルレアン帝國の中枢は、今でこそチェバーク城だが、それ以前に使われていた城がアンザース城だ。アンザース城は、急流に建造された難攻不落の城として知られ、シェルレスタのあるチェバーク大平原に突如として出現する、アンザース渓谷にある。それも、忘れ去られたようにそびえる台地の上に。台地は、アンザース渓谷を流れるディエス川に岩を削られ、半ば直角に近い形容を維持している。

 岸から台地まで橋をかけ、そこを唯一の出入り口にしていたことで有名である。

 何故、アンザース城が打ち捨てられたか――それは、いつ川の水で台地ごと破壊されるかわからないからだ。

 そして、ユリンカが愕然とした最も大きな理由――岸から城へと通じる唯一の橋が数年前の鉄砲水で破砕され、今は存在していないことにある。

 岸から見える位置に存在するのに、誰も近づこうとしない危険な場所――シェルレスタに住む者の常識だ。

「……泳いで渡る?」

 口にして、すぐさまその考えを振り払う。台地からディエス川の水面までの高低を換算し、あまりにも無謀で危険だと判断する。流されて溺れ死ぬのが末路だ、ということくらいは容易に予想できた。何しろ、ディエス川はシェルレスタ市街へと向かう下流ならともかく、この辺りの流速は恐ろしく速い。

「ダメ、それはあまりに危険だわ」

 ふと、あることに気付く。

 ――あの連中は、どうやって自分をこの離れ小島のような台地へ運び込んだのだ?

「船で運んだ? でも、船を出せるほど優しい川じゃないってお爺様から聞いたことがある……」

 ユリンカは腕を組み、台に腰掛けた。位置は確認できた。次は、策を弄することが不可欠だ。

「新しい橋を建造した、なんて話は聞いたことないし……どうやってわたくしをここへ押し込められたのだろう? それがわかれば何とかなりそうな気もする。でも、その前にどうやって牢屋から出よう?」

 解決策も浮かばないのに、次々と難問が湧き出てくる。

 彼女は牢の鉄格子まで寄ると、また周囲を探る。誰かがいるような気配もない。施錠はしっかりされている――よく見れば、ご丁寧なことに卸したての新しい錠前を重ねてつけられている。

「逃がす気は全くないようね……わたくしを監禁してあの方たちに何の得が?」

 ――やめよう。

 そのことは、考えても詮無きこと――今は、脱出することを至上の目的にせねばならない。事情など、自分の与り知るところではない。

 それに、誘拐犯の思惑に傾けるのは癪だった。

「そもそも、ここはアンザース城のどの部分に当たるのかしら?」

 外が確認できる。よって、地下に押し込められているわけではない。

 試しに、彼女は窓の下を蹴りつける。

「――痛っ」

 力の入れ方を間違えたのか、足首を捻った。

「何をやっているの、わたくしは」

 蹴ったからと崩れ落ちる程度の強度ならば、牢の意味を成さないことは自明の理。

 自分に呆れ、首を振る。

 溜息を吐き、台に座り直した時、空腹を知らせる音が盛大に鳴る。思わず顔を赤らめ、周囲を見回す。条件反射のようなものだ。

 無理もない。気を失っていたのが一晩ならば、昨日の昼から何も口にしていない。

「今何時なのかしら……」

 調子の落ちた声音が、ぽつりと宙に落ちる。ユリンカは、慌てて口を塞ぐ。不安を感じることを言えば、諦念を呼んでしまう。諦め、朽ちるのはまだ早い。

「それにしても……妙に静かだわ。誰もいないのかしら」

 周囲に気を回しても、城内に誰かがいる気配はしない。

 聞こえてくるのは川の流れる音くらいで、誰かの談笑などは聞こえない。見張りすらいないのだろうか。

 逃げられやしない、などと高をくくられているのか。

「ユリンカ・セルトワも、なめられたものね……! いいわ、見てなさい。絶対に脱出してやるんだから」

 決意を胸に抱いた刹那、足音が聞こえた。気配も何もなく、確かに誰かがこちらに向かって歩いている。

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