第三章⑤

「ミハイル……?」

 どうして、彼がここにいるのか。疑問が脳裏に浮上した瞬間、ますます険しい顔つきになる。

「あなた……シフ・ジフだったかしら? また凝りもせずミハイルの真似? よほど、彼がお好きなようで! この卑劣漢! って、確かあなたは女だったわね。……この下世話な年増女! 何度も騙されるものか!」

 セシエレが聞けば、怒り狂いそうな文句を律儀に直しつつ、並べ立てる。格子の外に立つミハイルの姿をした者は、哀しげな眼差しを彼女に向けているばかりだ。

「――お気がすみましたか、お嬢様?」

 ミハイルは沈んだ声音で、尋ねる。

「いつまでミハイルのフリをすれば気がすむの? そんなにわたくしをコケにして楽しいのかしら、シフ・ジフ?」

 瞳の力を少しも緩めることなく、ユリンカは吐き捨てた。

「いえ、お嬢様。……正真正銘の、ミハイル・ディアレでございます」

「まだ言う? 今日はずいぶんと芸の細かいことね。こんな小娘をからかうだなんて、あなたもお暇なことね。お生憎様、わたくしはもう引っかからないわ。引っかかってなんてやるものですか」

 ユリンカは肩で息をし、ミハイルに背を向ける。動悸は激しく、耳元で鼓動がうるさく響く。

 だから彼女は、また近づいてくる足音に気付けなかった。

「呼んだか、このオレを?」

 ――ほら、痺れを切らして尻尾を出した。

 耳に障る不快な声に、ユリンカは厭味ったらしく笑顔で振り向き――硬直する。

「え……?」

 ――どうして、ミハイルの横に爬虫類みたいな白面の女が下卑た笑いを貼り付けて立っているのだ?

 ――どうして、ミハイルはミハイルのまま? あいつが化けたのではないのか?

「ご期待に添えられなくて悪かったなぁ、ふはは」

 シフ・ジフは禿頭を撫で、悪意のある笑みを意図的に作り上げる。彼女はミハイルの肩に腕を回し、まとわりついた。

「離せ、下郎が」

 ミハイルは怒気を漲らせるのを隠そうともせず、シフ・ジフを引き剥がす。シフ・ジフは素直に彼から離れた。彼女の口はおかしくて堪らない、と歪んだままだ。

「そう言うなよな、オレとお前の仲じゃねぇか」

「どういう仲だ? 言ってみるがいい、汚らしい暗殺者風情が」

「おお、怖い怖い。せっかくのオレ好みの男前が台無しになっちまわぁ。――そうそう、あの方からの伝言だ。あまり時間をかけてやるな、だとよ。オレはこれを伝えに来ただけなんだがなぁ、面白そうなところを残念だぜぇ。オレにはオレの仕事があるんでね、じゃあな。お嬢様、あまり気落ちするなよ? ふは、ふははははは」

 哄笑する《百貌》は、ひらひらと二人に手を振り廊下の奥へ消える。残されたユリンカとミハイルの間には、重々しい空気がわだかまっている。二人とも、何も語ろうとはしない。

 ミハイルはシフ・ジフに一瞥もくれず、視線をユリンカに戻し固定する。対するユリンカも、部下の無言の主張を汲み取ろうと、彼の瞳を真っ向から受け止めた。

「――お嬢様、よろしいでしょうか?」

 青年は、少女に何かを言うために、了解を得ようとした。少女は彼の意図を測りかねて、押し黙る。

「………………」

 長い沈黙が降りる。訊きたいことなら数え切れぬほどある。しかし、ミハイルの口から言われることは、何故だか躊躇われる。

「……待って。わたくしから訊いてもいい?」

 ミハイルはユリンカの問いを予想していたのだろう、深く頷いた。

 唾を飲み込む。それを言葉にするには、とても勇気が要った。

膝に震えが走る。口の中がカラカラに渇いている。それすら気にならないほど、汗ばんだ手のひらが気持ち悪い。

 ――逃げ出したい。

 言わんとしている問いかけの答えが、想像通りのものであるのが恐怖だった。確かめたくない真実――けれど、彼がここにいる理由が他に思いつかない。

 ――それでも、言わなくちゃ。

 逡巡に黙したユリンカを、ミハイルは何も言わず待つ。彼の目は、決意をした者のそれで――どこか、悲壮さを漂わせていた。そこに普段感じる、妹を見つめるような慈愛に満ちた光はない。

 ユリンカは意を決し、口を開く。

「ミハイル……あなた――わたくしを……わたくしを、裏切ったの?」

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