第三章③
「跳べる……わよね?」
意識すると、手が汗ばんでくる。貴族の少女には珍しく、幼少の頃は外で遊ぶのがお気に入りだった。何度か祖父やセシエレに叱責されたことを思い出し、ユリンカは頬を緩ませた。
それも、一瞬。
ヒールを脱ぐ。ひんやりとした石床の質感に、身を震わせる。季節は冬ではないのに、
助走はつけられそうにないそれの上に立ち、ユリンカは膝を曲げる。
「……それっ!」
可愛らしい掛け声と共に、膝のバネを利用して跳躍する。
「――っ!」
手のひらに、灼熱が走る。勢いが余りすぎて前のめりになり、手を壁に激突させてしまったのだ。鉄格子には、今一歩届かない。
擦り剥けた手の皮から、少量の血が滲む。ユリンカは唇を噛み、痛みを堪える。少し手の皮を擦ったくらいの痛みが何だ。――ニコラはもっと痛がっていた!
脳裏に、額を不気味に蠕動させ熱に浮かされ喘ぐ少年の姿が浮かぶ。彼の苦痛を、自分はわからない。わからないからと、見過ごすのは嫌だ。
「もう一回……何度でもっ!」
今度は踏み切るタイミングを間違えて、壁の一歩手前に着地してしまう。ユリンカは悔しくなって、目頭に熱を感じた。
「まだ、まだよ! 諦めたりなんかしないん、だからっ!」
誰に言うでもない、他ならぬ自分を叱咤する。泣き言なんて言っていられるほど、暇ではない。自分にそう奮いをかけ、もう一度。
きちんとあの鉄格子を掴むまでは、止めるつもりなど毛頭ない。
脱出するにしても、ここを把握しないと策も立てられない。誰かに助けに来てもらうのを待つ――そんな受身は、性分ではない。
――さぁ、跳べ。
こんなところで何もしないことほど、愚かなことなんてない。
何度も、何度も失敗して地面に叩きつけられる。その内に、着ているビスチェドレスが裂ける。絹でできたそれは、あまり耐久性には優れていない。手入れをしなければ、すぐに傷んでしまうものだ。よく見れば、丈の部分が擦り切れている。
しかし、今のユリンカには服の汚れなどは、どうでもいいことだ。そんな瑣末なことを気にしていられる余裕なんてなかった。
また台の上に立つ。
動悸が激しく、身体を鞭打つ。手が汗ばんでいる。ドレスで汗を拭うと、ユリンカはまた跳ぶ。
今度は、うまく歩調が合った。鉄格子をしっかり掴む。擦り切れた手のひらの鋭利な痛みよりも、歓喜の方が勝った。
「やった!」
格子にぶら下がり、懸垂の容量で身体を持ち上げる。セシエレに鍛錬を受けていたこともあり、そういった基礎的な技術は心得ていた。
程好い疲れに痺れた腕に力を入れ、顔を窓に近づける。新鮮な、水と草の匂いが鼻を突く。牢の湿っぽい黴臭さに比べれば、天と地ほどの差がある。
「あれは……」
まず、目に映ったのは尖塔だった。距離が少しあるのか霞んでいたが、見覚えのある形――シェルレスタのシンボル、シェルレアン帝國皇帝が住むチェバーク城の尖塔だ。頭の中に地図を描く。
尖塔の大きさから、この場所からチェバーク城への距離を推測すると、シェルレスタから大きく出ていない。
「この方向にチェバーク城の尖塔が見えるということは……」
様々な情報を検索し、予測を立てる。
「あ……。あそこに時計台が見える……だとすると」
尖塔からさほど離れていない、右の方向にシェルレスタ市街の観光名所の一つであるシェルレスタ時計台が視認できる。
脳内のコンパスから地図を描く。
「チェバーク城から見て南の方角に時計台があるから……ここは、チェバーク城から西にある? それだったら、ここは……?」
不要な情報を削ぎ落とし、地図の空白を埋めていく。
「ここは――アンザース城!?」
ユリンカは、ようやく鉄格子から手を離し、床に着地する。少し高さがあったのか、足の裏が痺れる。
「な、何てこと! アンザース城だなんて!」
足の痺れよりも、頭を殴られたような衝撃にユリンカはよろめいた。
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