エピローグ・胸いっぱいに空気を吸い込んで

エピローグ・胸いっぱいに空気を吸い込んで

次々と、景色が後ろへ流れていく。

帝都シェルレスタは、もう遥か後ろに霞んで見えない。

平坦な街道を走る蒸気駆動車は、乾いた路面の音を蹴飛ばし、ひた走る。

シェルレアン帝國西方部、フィサーナ地方とシェルレスタを結ぶ街道の途中だ。

のどかな田園風景を眺めて、ユリンカは車中大きな欠伸を漏らした。

 今日の彼女の装いは、スカート部分にプリーツ加工を施した薄桃のシャツドレスだ。胸元の釦を二つほど開け、そこから首に提げた羽飾りの銀細工が顔を覗かせている――昔、ミハイルが誕生日のお祝いに、とくれたものだ。

 フィサーナに行きたい、とユリンカがエルンストに親告したのは、葬儀の翌日のことだった。

辛い思い出が詰まった帝都を離れたい――という気持ちよりも、自分の足跡を辿りたい、とユリンカは思ったのだ。明かされた、見も知らない本当の母親――もう逝去しているということは教えられたが、どうしても母の生まれた場所へ行ってみたくなった。

 セルトワの家督を継ぐまでに、まだ二年もある。その間に様々な場所へ行き、民を見て回りたい――ユリンカは、そう考えた。帝都に閉じこもったまま二年を過ごすのは、時間の無駄のように思えた。

 そして、静養中のニコラが穏やかに暮らせる場所として、あの孤児院で暮らす子供たちの新しい家を、フィサーナに用意するつもりでいる。

 ――空気の悪いところで暮らすよりも、よっぽどいいものね。

 転々と農家が建ち並び、田園と野菜畑、有名なフィサーナの葡萄畑が目に眩しい。

 新しい土地へ来たのだ、と胸が高鳴った時――絶妙の間で、邪魔される。

「眠いのか?」

 笑いを噛み殺した声で、彼女の横に座した灰色髪の男が尋ねた。不意を突かれて、ユリンカの顔が赤らむ。

 彼女は、ぎろりとヴィニを睨みつける。ヴィニは、愉快気に肩をすくめた。

「う、うるさいわね……昨日あまり寝られなかったのよ。――ところで、ヴィニ。わたくし、一つ聞きたいのだけれど?」

「ん?」

 コホン、と彼女はわざとらしく咳をした。そして、やおらヴィニを指差すと、捲くし立てたものだ。

「そりゃあわたくしがあなたについてきて欲しいと言ったわあなたも快諾してくれたわけだけど別に嬉しいとか思ってないんだから勘違いしないでくださるでもどうしてあなたが車のわたくしの傍に座っているのかしらいいセルトワの従者になるってことはわたくしの言うことに従うってことよわたくしは隣に座れなんて言った覚えはないわわたくしが言ったのはセシエレの隣に座れってこと聞いてなかったのかしらセシエレも何か言ってやっていや笑わなくていいから執事としての教育をしてってちゃんと聞いてる?」

 セシエレは、主の早口に思わず噴き出した。

「危ないから前見て運転してよ!」

 照れ隠しについぶっきらぼうな口調で喋る、妹のような彼女が、可愛くて仕方がない。セシエレはハンドルを握りながら、恭しく頷いた。

「いや、何かあった時に嬢ちゃんを助けやすいようにだな……」

 ヴィニは灰色髪を掻きながら、弁解した。しかし、彼の新しい主人は聞く耳を持たない。

「いい? わたくしはあなたの主人なの。そのわたくしがセシエレの隣に座れって言ったんだから大人しく座ってくれればいいの。わたくしは、一人で景色を眺めたかったわけ。感傷を邪魔されたくなかったわけ。――ああ、もうセシエレ」

 ユリンカはこれ以上何かを言うのが面倒臭くなったのか、運転手に声をかけた。彼女は、視線も動かさず応じる。

「何でしょう、お嬢様?」

「外の空気が吸いたいから、ちょっと車止めて」

「かしこまりました」

 程無くして、車は街道の脇で停車した。

 ユリンカは弾かれたように、車外へ出る。大きく伸びをし、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込むと、仄かな葡萄の香りがした。

 田舎特有の景色が、目に新しい。

 ヴィニとセシエレも彼女に倣って外に出ると、二人して主の屈託なさに笑みを零した。

「こうして見ると、嬢ちゃんも普通の女の子だな」

「――ヴィニ殿。わかっておられるとは思いますが、従者が主に手を出してはいけませんよ?」

 セシエレがそうたしなめると、ヴィニは真顔を繕って異議を唱える。

「いや、あのな……いくら何でも、そんなことしないって」

「あら、お嬢様は魅力的なお方ですよ?」

 彼女の視線の先には、いつの間にやら近所に住む子供と話しているユリンカがいる。彼女は、ヴィニが何か言うのに取り合わず、主の傍へと歩いていった。

「何だかな……」

 ヴィニは半ば呆れ顔で、二人を見やる。二人が並んで立つ後姿は、主人と従者――というよりも、姉と妹のように思えた。彼女たちの邪魔をしないよう、彼は車へと戻り、助手席に座り直した。

「お姉ちゃん、またね!」

 まだ五、六歳ほどの少年は、ユリンカに手を振ると、彼女も笑顔で振り返す。

「あの子、この辺りに住んでいるんですって」

「そうですか、お嬢様は子供に懐かれるのがお上手ですからね。一緒に遊んでしまうというか……」

 嘆息するセシエレの足を、憮然としてユリンカが踏んづける。弱い力だったのか、セシエレは涼しい顔だ。彼女は、どこまでも広がっていそうな景色に目を向けると、口を開いた。

 主が、澄んだ黒い眼差しを向けてくる。

「お嬢様、何故カペラなのですか?」

 帝國ではあまりにも有名な、報われぬ少女の悲劇を描いた童話。その少女の名を冠するに思い至った理由を、知りたかった。

「だって、哀しいじゃない」

「哀しい?」

 ――ミハイルの死が?

 ユリンカは、否定を込めて首を振った。

「違う、あの童話の少女カペラが。後から報われないものの象徴だって烙印を押されて何百年も経っているのが哀しいなって」

「そう――思われるようになったのは、ミハイルのことも関係あるのですか?」

 ユリンカは、曖昧に返事すると、一歩前に出る。葡萄の香りが、身体中を駆け巡って新しい自分に生まれ変わらせてくれそうな、心地になる。

 くるり、と振り向くと、スカートの裾が花のように広がった。薄桃の花弁の中心にあるユリンカの表情は、晴れやか――芯に、ほんの少しだけ涙を滲ませている。

「ミハイルの死が報われなかったなんて絶対わたくしは思わない。そんなこと、許さない。ねぇ、セシエレ。知ってる? 山羊の少女カペラの優しさは、彼女の死後も村人たちを護ったっていう結末を。それでね、村人たちは改心するの。それが、カペラの願いだから」

「いえ、存じ上げません」

 初めて聞く話だった。――その童話の結末は、村人たちの悪辣さに怒った神が村ごと洪水で沈める、という救いのないもの。

 怪訝そうなセシエレに、ユリンカは悪戯めいた笑顔を返した。

「そりゃそうよ。たった今、わたくしが作ったんだもの。だから、カペラの名前をわたくしが使うの。そしてみんなに教えるのよ」

 決意を浮かべた彼女は、気高い美しさを放っていた。

 彼女は、銀細工の羽飾りを握り締めると、今はもういない彼に呼びかける。

 ――そこから、何が見えるのかしらね、ミハイル。

 涙はまだ、心にこびりついている。これから先何度も、凄惨な最期を思い出し、心を濡らすだろう。

 忘れることなんて、絶対に無理だから。

 忘れたいだなんて、絶対に思えないから。

 だから、ユリンカは見ていて欲しいと、抜けるような青空に――彼に、願う。自分が、乗り越えて行くのを見守って欲しい、と切に願う。

「この世界に、報われないものなんてないって」

 蒼穹の下、誰かの笑い声が聞こえた。

 きっとそれは、彼女が思い描く未来の世界で弾けている音なのだろう。

 至る道程へ、今踏み出したはじまり――ユリンカは、もう一度葡萄の香りをいっぱいに吸い込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Capella 佐々木敦也 @gokutubusi66

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ