第四章⑫

 重く響いた扉の開く音に、床を叩く足音が混ざる。

 彼は、腫れ上がった目の奥から近づく姿を確認した。

「エルンストか……」

 唇も腫れ上がったせいか、奇妙な響きを伴って、声が紡がれた。天井から吊るし上げられる形で、両腕も拘束されている。曝された裸身には、紫色に変色した銃創、幾重にも痕をつけられた鞭、殴られた形跡も見受けられた。

 入ってきた者は、官吏に人払いを命じる。

「兄貴、ご機嫌はいかがでしょう?」

 軽薄な男は、悪鬼のように囚人に滲み寄る。

「ふん、皮肉はよせ」

「兄貴、お別れを言いに来ましたよ。《帝騎警》の引継ぎも済みました。陛下は快諾してくれましたよ、よってこれからは俺が一応帝騎警の上ってことになりますかね」

「厭味を言うだけならさっさと殺せ」

「……随分、殊勝になりましたね」

 ぞっとするほどの憎悪が、エルンストの唇から滑り落ちる。囚人はぎょっとして、彼の顔を凝視した。

「今まで生かしておいたのは――実に個人的な恨みからだ」

 続く言葉を予想できた囚人は、溜息を吐く。

「ミハイルは、僕の友人だった。それは、兄貴もご存知だったはず。何もあんな惨たらしい仕打ちまで……そんな最期を強要される奴じゃなかったのに。本当にいい奴だった。彼の仇は、この手で打ちたかった」

「――そうか、ならさっさと楽にしてくれ」

 永い責め苦の頚木から放たれる――そのことに、囚人は安堵した。偉丈夫として知られていた彼の姿は、見る影もない。

「最期に、何か言うことは?」

「――ユリンカは、見届けないのか? あれにとっても、ミハイルは大切な者だったはず。さぞ、この手で私を殺したいだろう」

 エルンストは、囚人の戯言を鼻で笑う。

「あいつに、こんなところを見せられやしない。それこそ、ミハイルは許さない。あいつには、兄貴は死んだと伝えてあります。ああ、心配せずとも、ユリンカは帝都にはおりませんよ」

 訝しげな光が、囚人の目に宿る。真意を探るように、エルンストの瞳を見つめる。睨む気力も、すでに残されてはいない。

 軽薄な面を捨てたエルンストは――般若の如き形相。瞬間的にそれを霞ませ、穏やかな作り笑いの仮面で、表層を覆う。

「あいつの本当の母親が生まれ育った場所――フィサーナに行く、と言い出しましてね。あそこはセルトワの持ち物だし、ちょうど知事も空位ですから。落ち着いて勉強したいんだと。まぁ、俺は別にセルトワの家はいらないですからね。やる気を出してくれて、良かったですよ。さぞお悔しいでしょう? 本来ならば、と」

「………………」

 澱んだ血と汗と尿の臭いに、エルンストは鼻を抓んだ。

「ここは、相変わらず酷い臭いだ。兄貴、あんたには日の下よりもこんなしみったれた場所で死ぬ方がお似合いだ」

 侮蔑。

 部屋の机の上に置かれた銃を手にする。

 ぽっかり空いた黒い円に、囚人は何を見るのか。

「最期に教えてやるよ。俺は、ミハイルのためにあんたを殺したいんじゃない。そんな免罪符を口にするほど、落ちぶれちゃいない。あんたみたいに、薄汚れてなんかいない。だから最期くらいは、一思いに殺してやる」

 銃声が、乾いた叫びを上げた。

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