第四章⑩

 酒と煙草と香水の匂いが染みついた酒場。

 昼間と言うこともあり、店内は静けさに満ちている。

店主は恐縮した顔で、カウンターに座る男たちに酒を振舞った。一方には麦酒、もう一方には果実酒だ。

「ありがとう。で、昼間から酒なんか飲んでいいのか?」

「構わんさ、葬儀なら済んだからな。兄貴が手を回した毒薬の特定、その兄貴の処刑、事実の揉み消し――まぁ、色々あったからな。さすがの俺もいささか疲れたよ」

 グラスに注がれた麦酒を飲み、エルンスト・セルトワは屈託なく笑った。墓地から直行したのか、彼は喪服だった。

「それに、誰かに酒に付き合って欲しかったからな。ゲインズブール君を捕まえられて、丁度良かったよ」

「ま、一杯飲もうと約束したのは俺だからな。君に付き合うのも悪くない」

「俺を君、と呼ぶのはお前くらいなものだ。天下のセルトワ当主代理に、恐れを知らない男だ」

「癖だから、気にしないでくれ」

 葉巻を咥え、燐寸で火を点ける。

 店主は夜に向けて下拵えをしているのか、時折、包丁を叩く小気味いい音が鳴る。煮込んだスープの匂いが漂う。

「――ユリンカはどうだった?」

「嬢ちゃんなら、今はミハイルの葬儀を行っている頃だよ。俺は、彼とはほとんど話をできなかったから、席を外させてもらった。一度、飲んでみたかったね」

 煙を吐き出し、エルンストは死者への思いを綴った。

「あいつは、子供の頃から知っていてね。ディアレはうちの執事の家系だからな。だから、ミハイルも妹のシェスタもよく知っている。兄貴もそうだったんだけどな、あんなことをしでかすとは思えなかったよ」

 病気であるシェスタへの治療費の全額負担を代替に、ユリンカを暗殺する――ルフェルトがミハイルに持ちかけたのは、そういう類の密約。

「俺は、どうも腑に落ちないんだけどな」

 ヴィニは果実酒を流し込むと、ぽつりと漏らした。すぅ、と室温が下がる。二人の間に、薄い膜が張られる。

「何もかもが都合良すぎる気がしてね。君がルフェルトに突きつけた皇帝の勅令――あれ、偽物だろう?」

「――どうしてそう思う?」

「いくら何でも穏便にことが進みすぎているからな。あの状況で都合良くランバースが死ぬというのもな。昼行灯として長年周囲に思い込ませてきた君がいきなり牙を剥く――いささかできすぎてやしないか?」

 エルンストは何も答えず、煙を宙に放った。環を描いたそれは、緩やかに浮上し天井で形を崩した。

「君がルフェルトをわざと泳がせた――としか思えないんだよ、俺には。嬢ちゃんがさらわれた時も、君の動きは早すぎる。この三日の事後処理も迅速、手抜かりもない。他の連中に騒がせないってのも大したものだ」

 エルンストは、片目を瞑ってみせた。

「兄貴は急ぎすぎた。ただ、それだけさ」

「ま、俺も知ってどうこうしたいってわけでもないからな。まぁ、君が嬢ちゃんを大事にしているのはわかった」

「そいつは買い被りだな。俺はあいつを利用したいだけだよ、色々とな」

 エルンストは苦笑し、煙を吸い込む。

 次に吐き出された時、わだかまる緊張感が霧散する。

 二人は無言で、酒を酌み交わす。ゆったりとした空気が時間の隙間を抜けていく。

「そういえば――」

 エルンストは、思い出したように口を開く。ヴィニは片目で、彼に続きを促した。

「ルジェ、だったかな? どこから知ったのか、彼の遺体を引き渡せと《ディナ・シー》から通達があってね。だが、あの嵐に巻き込まれた、と伝えておいたよ。実際、彼の遺体はお前がアンザースの渓谷に水葬したから間違いでもあるまい?」

「ああ、助かるよ」

「それにしても、妙なのは《ディナ・シー》の言い草だ。奴らは、ルジェと《ディナ・シー》は一切関係ない、とそう言っていたよ。お前も言っていたが――」

「俺とあいつは分身……双子の兄弟みたいなもの――そう思ってくれて構わないさ。あいつがどうして数人の私兵だけを連れて単独でルフェルトと手を組んだかなんて、細かいところまでわからない。ただ一つだけ言えるのは……」

 果実酒の残りをぐいっと飲み干すと、ヴィニは席を立つ。

くすんだ月色の瞳が、哀愁に満ちた光を帯びる。失ったものを遠くに見ているような、そんな寂しげな眼差しだ。

「いや、よそう。これは俺たち兄弟の心に仕舞っておくよ」

「そういうことなら、追及はせんさ。――で? お前はこれからどうするんだ?」

 微かに含む、真摯な音色。そこに隠されたエルンストの意図を悟って、ヴィニは肩をすくめる。

「嬢ちゃん次第だよ」

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