デボラ・シスレー侯爵夫人の幸せ

第57話 トムとデボラの成長

 ◆◇◆



 そこからひと月ほどが経った頃。

 トムの練習の成果をデボラは褒めた。


「まあ、縫い目の大きさも、間隔もぴったり揃っているわ。なみ縫いストレートステッチも、返し縫いバックステッチも、完璧な運針ね」

「は、はい! ありがとうございます!」

「じゃあ次はこれをやりましょう」


 デボラは幾つかの小さな穴が空いた布を手渡す。


「よく見て下さいね。こうやって穴の周りを、もとの布地が見えない程に密集して縫っていくのです。かがり縫いと言いますの」


 デボラはあっという間に手本をひとつ刺して見せた。穴の周りに綺麗な刺繍の輪が出来上がっている。


「もう一度やりますね。……このように、縫い目の長さを少しずつ変えていくと小花模様になりますが、最初はこの輪が完璧に出来るようになるまでは、縫い目の長さは変えないで下さい」

「何故ですか? 花模様も練習してみたいのですが」


 縫取りの基本練習ばかりやらされていて、模様を作ることが出来なかったトムから出た疑問に、デボラは真っ直ぐ目を見て答える。


「このかがり縫いは、縫い目の長さと糸の密度を揃える事が一番大事だからです。これが完璧に出来るようになれば、布の端を処理する時の飾りにもなりますし、ボタンホールやピンホールも作れます」

「ボタンホール?」

「将来仕立て屋を目指すなら、きっちりと縫い目の揃ったボタンホールが作れることはとても大切ですわ」

「……わかりました!」


 トムの目がキラキラと輝き、前向きな答えが返ってきたことにデボラは嬉しくなり、ローレン夫人と微笑みを交わした。

 彼は年の割に利発な子だと思っていたが、将来仕立て屋の見習いになれるかはまた別の話である。賢さに加えて手先の器用さが絶対的に必要だからだ。

 だが、このひと月で最初はガタガタだった縫い目をコツコツと修正し、デボラが完璧と認めるレベルまで習得した彼の真面目さがあれば、将来は明るいだろう。


「これができるようになったら、刺繍の模様や他のステッチも教えますから、お母様やお姉様にも追いつけると思いますわ」

「はい!」


 秋の実りの時期が近づいている。そうなれば彼らの家族は収穫の仕事に追われ、その後も祭りの準備等で忙しくなるだろう。暫くは刺繍の練習も出来なくなる可能性が高い。デボラはその前に基礎をトムに叩き込んでおきたかった。


「そういえば、この間、本をアシュレイから借りたと聞いたのだけど、どうでした?」

「凄く面白い本でした! 冒険にワクワクして……!」


 刺繍の訓練と平行して、簡単な読み書き計算が出来るように勉強もさせている。仕立て屋になりたいなら必要な事だし、そうでなくても収穫した農作物を売る時にも役に立つからだ。


 貴族から農民の立場になり、今は執事長であるアシュレイや、農家出身で厨房の見習いだが、今は食料品の在庫管理も一部しているピーター。この二人をトムは肉屋の使いをしている時から元々知っていたが、昔の境遇が自分と似ていることは訓練を始めるまで知らなかった。計算が出来て手に職があれば良い所に勤める事が出来て食べるものに困らないという実例が身近にいる。彼の胸は益々希望に膨らんだことだろう。


 アシュレイやピーターを中心にシスレー邸の使用人たちがちょっとした暇を見つけた際にトムに読み書きや計算を教えている。こちらも彼は真面目にこなし、順調のようだ。


「それは良かったわ。でも夜まで刺繍の練習や本を読むのに没頭してはダメよ。目が悪くなるから」

「はい! 蝋燭の無駄遣いだと姉さんに怒られたのでもうしません!」

「まあ、もう怒られていたの?」


 デボラはふふと笑った。控えめな笑い声だが、その笑顔は屈託がなくとても美しい。それを見たトムの顔がほんのりと赤く染まる。


 デボラもまた、このひと月で成長したのだ。徐々に素直な感情を表に出せるようになっている。

 刺繍の訓練も、見本や図解がメインの解説書を作ったことでトムの母や姉たちは様々なパターンを習得できている。「収穫祭までに姉さんに帽子の飾りを贈りたい」という、トムの当初の目的のひとつは間に合わないかもしれないが、既にその姉本人は帽子の飾りを自分で作っているようだ。デボラも見せて貰ったが悪くない出来だった。


 彼女が手作りの刺繍で飾った帽子が周りの目に入り評判を呼べば、姉たちに刺繍の依頼がくる可能性もある。そうなればデボラの読み通り、トム一家は副業で生活が楽になるだろう。

 これが上手くいけば、ゆくゆくは他の領民にも技術を同じように広めたい。デボラが領民に直接教えることはできないが、トムの母と姉たちに見本や図解を貸して、教室を開いて貰うという手もある。刺し手が増えれば、本当に刺繍がシスレー領の名産品になれるかもしれない。

 デボラは自分が少しでも皆の役に立てているという喜びを感じていた。


(これも、喜んで貰えるかしら……いいえ、欲張ってはいけないわ。ご迷惑に思われないならそれだけで……)


 彼女は丁寧に一針ひとはり一針心を込めて刺繍を刺しながら考える。彼女の手元では美しく縫い目が揃った精密な技術で、侯爵家の家紋がかたどられていた。



 ◆



「侯爵様、この後少しお時間を頂けませんか?」


 ある日の夕食時にデボラにそう切り出され、侯爵は微笑んで答えた。


「勿論かまわない」

「では後程、執務室にお邪魔致しますね」

「?……ああ」


 てっきり食後にそのままお茶か軽い酒でも楽しみながら話をするものだと思っていた侯爵は意表をつかれた。敢えて執務室で話をするということは、多くの使用人が居る食堂では話したくない内容という事か。

 ただ、執務室であってもアシュレイとローレン夫人は付き添うだろう。二人きりで内密の話というのは彼女が人質である以上難しい。


 何の話だろうかと考えながら執務室でデボラを迎え入れた侯爵は、またもや意表をつかれた。


「あの……こちら、私が刺しましたの。でも、ご迷惑でしたら遠慮なくお断りして下さい」


 恥ずかしそうにデボラが差し出してきたのは、シスレー侯爵家の家紋が刺繍された、見事な出来映えのハンカチ。

 侯爵は予想外の申し出にほんの少しほうけたが、すぐに気がついた。そしてくっと笑い出す。


(なるほど。人目のあるところで渡したくなかったのは、私が断りづらくならないように配慮してくれたのか)


 このひと月、彼女がシスレー邸の皆にイニシャルを飾り文字で刺繍したハンカチを贈っていると聞いている。ローレン夫人は勿論、マーナやヴィト、もっと下の使用人たちにも。そして最初は彼女を疎んじていたアシュレイにまで。

 贈られた者は皆、喜んで受け取ったそうだ。その使用人たちの前で同じようにハンカチを贈り、断られれば自分がこの館の主人であっても流石に気まずい雰囲気になるとデボラは考えたのだろう。

 だが、それは杞憂というものだ。


「あ、あの……?」


 くつくつ笑いをする侯爵の様子を不思議に思ったのか、遠慮気味にデボラが訊ねてくる。侯爵はそれに答えた。


「いや、断るわけがない。というか、私にはくれないものかとすら思っていたよ」

「も、申し訳ございません。遅くなりまして……」

「いいや」


 彼はデボラの手からハンカチを受け取り、じっくりと眺めた。やはり彼女は一流だ。縫い取られた侯爵家の家紋は完璧だし、それ以外の飾り刺繍も素晴らしい。文句の付け所がない。


「これだけの物を作るなら、かなり時間がかかったろう」

「それほどでも……」


 デボラはさらりと謙遜したが、飾り文字のイニシャルと、家紋の刺繍では労力が段違いなのは素人目でもわかる。


「ありがとう。特別な時に使わせて貰う」


 侯爵の言葉に、彼女の顔がぱっとほころぶ。


「お受け取りありがとうございます。ではこれで失礼致します」

「ああ、おやすみ」

「おやすみなさい」


 デボラとローレン夫人が退出し、執務室の扉が閉まる。と、侯爵のにこやかな顔が急に真面目なものになった。


(ハンカチを切っ掛けに、別の用件を切り出すのかとも思ったが……本当に話はこれだけだったか)


 彼はデスクの鍵付きの引き出しに目をやる。中には先日届いたリオルド王子からの手紙が入っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

実質追放の公爵令嬢、嫁入り先の隣国で「君を愛することはない」と言われて困り果てる 黒星★チーコ @krbsc-k

作家にギフトを贈る

応援ありがとうございます!
カクヨムサポーターズパスポートに登録すると、作家にギフトを贈れるようになります。

サポーター

新しいサポーター

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画