第38話 ダニエル・アシュレイの過去
◇
「みんなー、お疲れさま! お昼を持ってきたわ!」
「マギー姉さん!」
あまり実入りの少ない、青い麦穂が風に揺られている。
緑の絨毯が広がる田園風景の中に立つ、
彼女は大きなバスケットを二つも抱えて農作業をしていたダニエル達の下へ駆け寄ってくる。その笑顔も太陽のように眩しい。
「今日のパンは美味しく焼けてると思うわ!」
「そりゃあ楽しみだ!」
「こないだのは外が焦げてて中が生焼けだったからねぇ」
「あぁ~それは言わないでぇ!」
「あははは!」
大人たちに軽口を叩かれ、恥ずかしそうにしながらも朗らかに笑う彼女。その間にてきぱきと木陰に敷物を広げ、バスケットの中から昼食を取り出していく。十一歳のダニエル少年はその様子をにこにこと見ていた。
マグダラ・オリーがおよそ貴族らしくないのは、オリー伯爵家が貧しい為である。元々この地域は土壌があまり良くないのか農作物の育ちが悪い。更には周りを山に囲まれた盆地で嵐がよく起こる。
先代のオリー伯爵、つまりマグダラの祖父は治水と土壌改良を試みようとした。正確にはその為の資金を捻出しようと、知り合いを信じて投機話に乗ったのだ。しかしそれが詐欺だったため伯爵家の資金繰りは益々苦しくなった。
使用人の殆どを解雇し、伯爵家の一族は身の回りの事のみならず屋敷の手入れや農作業まで自分達でやるようになったが、それでも膨らんだ借金は返しきれなかった。
最後にはとうとう、一番大事なオリー伯爵領を守るため二番目に大事なものを手放さざるをえなくなった。それはオリー家の縁者が代々引き継いでいるもうひとつの爵位、アシュレイ家の子爵位と屋敷だ。本来ならそれは現オリー伯爵の従兄弟であるダニエルの父親が継ぐはずのものだったが、その妹と結婚した平民の商家の男へ金と引き換えに譲ることになった。父は笑って言う。
「オリーの本家を売るよりましだよ。うちは領地が無いが、あちらを売れば多くの領民が困るかもしれない。それに俺はもともと貴族ってガラじゃなかったしな。皆と畑を耕している方が向いている……だが、お前には申し訳ない事をした。お前は俺と違って賢い子だから」
「そんなことはないよ、父さん。僕も今の生活が気に入ってる」
父はダニエルが気を使っているのだと思ったらしい。少し悲しそうに微笑んだ。
「お前はやっぱり賢い子だ」
そう言って頭を撫でられたけれど、当時のダニエルは本心から言っていたのだ。屋敷が無くなった事で彼らはオリー伯爵家の離れに住み、マグダラ達と生活を共にしている。ダニエルは
「はい。ダンにはもう少しおまけ」
木陰で皆で昼食を摂っている時、マグダラは自分の分のパンを半分ちぎってダニエルに手渡そうとする。
「それじゃマギー姉さんの分が無くなっちゃうよ」
「いいのよ。ダンは育ち盛りなんだからもっと食べなくちゃ!」
「それを言ったら姉さんだって僕と三つしか違わないじゃないか!」
二人で押し問答をしていると、周りの大人達が笑いだした。
「しょうがないなぁ、ほれ」
「ほら、お食べよ」
「子供達にひもじい思いをさせるわけにはいかないからな」
皆がそれぞれのパンをちぎり、ダニエルとマグダラに差し出した。ダニエルは弾けるような笑顔になる。温かいこの地域の皆と、オリー伯爵家が大好きだ。お金も爵位も無くても幸せだと思っていた。
……そう思っていたのに。
◇
白いドレスを身に纏ったマグダラは別人のように美しかった。十六歳を迎えた彼女に、アシュレイ子爵夫人であるダニエルの叔母がドレスを用意したのだ。
「いくら貧乏伯爵家でもデビュタントくらい経験させてあげないとこの子が可哀そうよ」
そう言って夫と共に馬車に乗り、デビュタントボールに彼女を連れて行ってしまった。今にして思うとそれは純粋な親切心だけではなかったかもしれない。ダニエルの父の代わりにアシュレイ子爵となった元平民の商人は、貴族相手の商売を広げたくて爵位と妻を買った。更に新たな貴族とのコネを作る為にマグダラが使えると考えていたのだろう。
そしてその目論見は成功した。有力な貴族のシスレー侯爵がマグダラと結婚したいと婚約を申し入れてきたのだから。
「こんなの身売りじゃないか」
嫁入りの支度をするマグダラの横でダニエルはボソッと呟いた。彼女は明るく笑い、彼の横に立つ。いつの間にか少年は姉と慕う女性の背を追い抜いていた。
「まあ、違うわダン。私は望んでお嫁に行くのよ。こんな素晴らしい条件は二度と無いもの」
シスレー侯爵はマグダラとの婚約に際して、オリー伯爵家へ支援をしてくれた。それは多額のお金だけではない。人も寄越してくれて滞っていた治水工事も始まったし、農地の土壌改良のための情報まで提供してくれたのだ。
それでも、ダニエルは納得ができなかった。
「だって、これじゃ叔母さんと同じだよ。マギー姉さんはこれから貴族階級の奴らと付き合いを続けなきゃいけなくなるんだ。お金のために」
「それはそうかもしれないけれど……でも」
ダニエルは言い淀むマグダラに注視した。彼女が少しでも後悔しているのではないかと思って。だが、彼女の反応は逆だった。頬を染め、もじもじとしてこう言ったのだ。
「侯爵様は、社交が嫌なら最低限で良いと言ってくださったわ。あの方はとっても優しくて…………素敵なの」
「!!」
ダニエルはショックを受けた。そしてショックを受けた自身に驚いて、言葉が出ずにその場を離れた。
「ダン? まだ話があるの、侯爵様は……」
マグダラの声が背中にかかる。いつもならそれは温かい毛布のように思えるのに、今は重石を乗せられているようだ。ダニエルは重い足をなんとか運んで自分の部屋に逃げ込む。固い扉に背中を預けると、温かい液体が頬を伝った。
「姉さん……マギー……!」
彼は漸く自覚した。自分は彼女を姉ではなく一人の女性として慕っていたのだと。
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