若き執事長は人生で二度目の後悔をする
第37話 アシュレイは衝撃を受ける
アシュレイは困惑を隠しきれずにいた。目の前の女性が自分と同じように、僅かに困惑した表情を表に出していたからである。まるで鏡に
「あの……やっぱりやめておきますわ」
赤毛の美女は自分から視線を外し、メイド長であるローレン夫人に言った。アシュレイは夫人に頼まれてこの場に居るのである。
「……アシュレイさんにご迷惑でしょうし」
(は? 迷惑ってどういう意味だ?)
若き執事長はカチンときたが、流石にそれは表に出さずに表情筋を引き締め笑顔を作った。
「迷惑ではありませんよ。私ではとてもデボラ様のお相手が務まるとは思えませんが、ダンスの練習相手になれるなら光栄です」
ところが向こうも愛想笑いの達人なので、アシュレイのお愛想は見抜かれてしまったらしい。
「いえ、私の我が儘ですもの……無理に付き合わせるのは申し訳ないわ」
そう言ってチラとこちらを見たきり、ふっと眼を伏せてしまう。アシュレイはその態度に更にいらっとした。そんな事をわざわざ言うのが気にくわない。
「我が儘だとご自分でおわかりなんですね?」
「アシュレイさん!」
たまらずローレン夫人が窘めるように声を出した。いつもはローレン夫人を尊敬しているアシュレイだが、この件は譲れない。
「ならばなぜ堂々と『我が儘に付き合え』と仰らないのでしょう?」
「まあ」
やっとデボラが自分と目を合わせたかと思えば、これは驚いたと言わんばかりに灰色の目をぱちぱちさせている。それでアシュレイのいらつきは最高潮となり、遂にはカッと血が沸き立ってしまった。彼にはデボラがかまととぶっているように見えたのだ。
「わざと引いてみせて誘い受けをするような回りくどいやり方が高貴な御方のなさる正しい振舞いなのですか? 田舎者の私にはわかりませんね」
言いながら彼の頭の中で「しまった」「やめろ」「言いすぎだ」という第二の声が響く。だが彼の舌は止まらなかった。今までデボラに対しての疑心や不満が溜まりに溜まって膨れ上がっていたところに、それを針でつつかれたようなものだ。一気に全てが噴出してしまった。だが、吐き出してスッキリしたかと言えばそうではない。
(やってしまった……)
アシュレイの額に冷や汗が湧く。主人であるシスレー侯爵には、デボラを丁重に扱うように言い含められていた。それなのに主人不在の時にこんな暴言をぶつけてしまうなんて大失態、いや馘を覚悟せねばならぬほどの職務違反だ。
今日はシュプリム伯爵の件で朝早くから様々な準備をし、スワロウが彼の相手をしている間に急ぎの馬を手配しつつ、それを覚られないように気を使っていたりしたから多少いらいらしていたのもある。が、そんな事は執事長と言う立場に於いて言い訳にはならない。アシュレイは自分の若さと至らなさに項垂れた。
ところがそこに飛んできた言葉はあまりにも意外なもので。
「……ごめんなさい。そのつもりはなかったけれど、確かにそのように見えてしまうわね。謝罪するわ」
「デボラ様!」
アシュレイが驚いて下げた顔をあげたのと、ローレン夫人が頭を下げようとするデボラを止めたのは同時だった。
「違います、デボラ様が謝るようなことは何もありません! アシュレイさん、今すぐデボラ様にお詫びを!!」
アシュレイはすぐさま胸に手を当てて深く頭を下げる。
「大変申し訳ありませんでした!! 如何様な罰でも受けます!!」
先ほど湧いた冷や汗が、つつ、と顔を滴るのを感じる。どんなに謝り、たとえ罰を受けたところで一度口に出した言葉は覆せない。
(それを俺は良く理解していた筈だったのに……!)
アシュレイは頭を下げたまま、激しい後悔に歯を喰いしばった。どれくらいの間そうしていただろうか。アシュレイにはひどく長く感じたが、本当は10秒も経っていなかったかもしれない。落ち着いたデボラの声が聞こえる。
「……いいえ、私は人質ですもの。我が儘を言ったり、ましてや罰を与える立場ではないわ。それに、本当に私が良くなかったの。アシュレイさんは折角ダンスの練習相手をすると言ってくれたのに、私が変な気を回してしまったものだから」
(どういう、意味だ……?)
微かな衣擦れの音とともに、アシュレイの視界に豪奢なドレスの裾が映った。デボラが歩み寄ってきたのだ。思わず顔を上げると、本当にダンスをするほどの距離まで彼女が近づいていた。間近で見れば見る程、完璧に整った美しい顔がそこにある。だが、その顔にはいつもの無表情でも作られた愛想笑いでもなく、僅かに苦い感情を浮かべているようにも思えた。彼女はその表情のまま、もう半歩アシュレイに近づき、ローレン夫人にも聞こえないような小さな声で囁く。
「アシュレイさんは、私を……いえ、マムートの人間を憎んでいるのでしょう? だからダンスで私の手を取るなんて耐えられない苦痛だろうと思ってしまったの」
アシュレイの中に雷に打たれたような衝撃が走った。なぜならデボラの言葉は図星だったからだ。
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