第39話 一度口に出した言葉は覆せない

 ◇


 ダニエルは、十三歳で使用人としてシスレー侯爵家に入った。


 当初は彼の賢さを惜しむマグダラがシスレー侯爵に相談し、侯爵の口利きで寄宿学校に入れる事になっていたのだ。が、ダニエルは丁重にそれを断った。


「僕は既に貴族ではありません。学校を卒業した後の勤め先も、学費をお返しする当てもないのです。それに勉強はやる気があれば学校でなくてもできます。どうせなら働いて手に職を付けた方がいいと思います」


 きっぱりとそう言った彼の気概をシスレー侯爵とその執事、スワロウはいたく気に入ったらしい。


「それではうちで働いてはどうかな?」


 と侯爵に言われた時、ダニエルは一瞬迷った。提案を受け入れれば、侯爵夫人と使用人という身分差があるものの、また彼はマグダラと同じ屋敷で暮らせるのだ。だが、恋心を自覚した彼にとってそれは辛さとも同居する暮らしになる。


 ゲイリー・シスレー侯爵は、ダニエルから見ても良い男だった。地位と金だけではなく、彼には余裕もあり人格も申し分ない。更にはダニエルより背も肩幅も大きく、薄茶色の髪にスカイブルーの眼を持つハンサムでマグダラが心を奪われたのも頷ける。侯爵家で働くという事は、二人が仲睦まじい夫婦でいられる手助けをしなければならないという事だった。


「……ありがとうございます。よろしくお願いします」


 ダニエルは頭を下げると共に覚悟した。マグダラへの想いは一生自分の中に秘めておけばいい。侯爵夫人となった彼女をもうマギー姉さんと呼ぶこともできない。それでも、少しでも彼女を支える存在になれれば良い、と。


 ◇


 前侯爵夫人……つまりシスレー侯爵の母親はとても「貴族らしい」女性だった。屋敷の女主人として使用人をきちんと扱い、淑女としての慎み深い振る舞いも常に忘れなかった。


 ダニエルはその行動に高位貴族の女性とはこういうものかと学ぶことができたし、待遇も悪くなかったので使用人の立場から見ればなんの不満もなかった。……ただ、別の立場で言えば思うところはあったのだが。


「奥様、お召し物が汚れてしまいます」

「えへへ……またお義母様に怒られてしまうわね」


 ダニエルに注意されたマグダラは照れ笑いをした。その頬に泥がはねている。彼女は結婚後もあまり変わらなかった。

 使用人や出入りの商人どころか領民にさえ気さくに話しかけ、自らも農作業に従事して爪の間は土で真っ黒という事も日常的だった。今も、侯爵邸の庭に作った畑で自分専用のスペースを貰い、畝を起こしている。すると本当に噂の義母がやってきた。日傘をさし、朝の散歩をしているところだったようだ。


「まあ、なんて格好なの?」

「お義母様、おはようございます」

「あら、農民の娘を持った覚えはないわ。私を義母ははと呼ぶのならもっと侯爵夫人としての自覚を持ちなさい!」


 実に「らしい」前侯爵夫人は、当然ながらマグダラの「らしくない」態度をよしとしない。ダニエルはそれを横ではらはらしながらも、使用人の立場では口を挟めず見守る事しかできなかった。


「母上、マギーの畑仕事は私が許したんです」

「ゲイリー!」


 そこへ口を挟める立場のシスレー侯爵が現れる。彼は優しく微笑みながらマグダラの肩を抱く。


「シスレー領の主な産業は農業ですよ。それをよく理解するのも立派な侯爵夫人の務めのひとつです」

「……まあ、それはそうだけれど」

「それに私はそんなマギーが好きなのでね」

「だ、旦那様……」


 真っ赤になってもじもじするマグダラを見た侯爵の母は毒気を抜かれたらしい。呆れたように言った。


「……まあ、夫婦が仲睦まじいのはとても良いことよ。でも、社交の場でこんな農民同然の態度をされてごらんなさい。そうなったら恥をかくのは夫であるあなたなのよ、ゲイリー」

「王都から離れたこんな田舎では、自ら望まない限り貴族同士の付き合いも滅多に無いでしょう? 私はマギーには社交は最低限で良いとも言っています」

「だからその、最低限の時だけでもキチンとして貰わないと!」

「私は彼女のデビュタントの時はキチンとしていたと思いますが。まあ、そんなに気になるようなら一度母上にマギーがキチンとしているか見て貰いましょうか?」


 マグダラはまだ頬にのぼった血が冷めやらぬままの顔で、まっすぐ義母を見つめ懇願した。


「お、お義母様。確かに私は田舎娘だと思います。厚かましいお願いですけれど、侯爵夫人らしく見えるようにお義母様がマナーを教えてくださったらとても嬉しいです……!」


 それはこの場をしのぐための嘘でも、義母へ媚を売るための言葉でもなく、真摯な願いであると傍に居るダニエルから見てもわかった。そして前侯爵夫人にもその真心は伝わったらしい。


「……仕方ないわね。私のレッスンは厳しいわよ。覚悟なさい」

「はい! ありがとうございますっ!」


 結局のところ、前侯爵夫人は嫁いびりをするような人間ではなく。ただ貴族として、侯爵家として必要なものには厳格だっただけなのだ。


 ――――そう。それだけだったのだ。重ねて言うが彼女は嫁いびりなどしない。むしろ、マグダラの明け透けな性格を「らしくない」と指摘しつつも、実はひそかに気に入っていたくらいだった。

 だが、それとこれとは別なのだ。侯爵夫人として最も必要である、後継ぎを生む役目をマグダラは果たせなかったのだから。


 ◇


 結婚して暫く後、マグダラは妊娠五ヶ月ほどで流産する。そしてそれから四年の月日を経ても、彼女に子供が出来ることは無かった。


「とても残念だけど、離縁するべきだわ」


 その冷酷な判断を告げた時、義母の声は僅かに震えていた。


「貴女だって、若い妾を同じ屋敷に住まわせるなんて事をしたくないでしょう? 外聞だってよくないし、それに妾に子供が出来たらもっと辛くなるわよ」

「……はい……」

「ゲイリーには私から話をします。ここで待っていなさい」


 項垂れた嫁を見たくないのか、前侯爵夫人はさっと顔を逸らすと足早に出て行く。部屋にはマグダラとダニエルだけが残された。


「奥様……」


 当時十七歳で既に頭角をめきめきと現し、ただの使用人から執事見習いに格上げとなっていたダニエルは、きちんとその立場に沿った態度で白いハンカチをマグダラに差し出した。だが。


「ダン……」


 いつも太陽のような笑みを見せていたマグダラが、涙で濡れた顔で懐かしい呼び名を呟いた。その瞬間、彼は執事見習いではなくただのダニエル・アシュレイになってしまったのだ。


「マギー……姉さん、オリーの家に帰ろう」


 彼女は激しく首を横に振る。硝子玉のような透明な粒が空中に散った。


「いいえ、帰れないわ。私のような子供も生めない女が出戻ってもオリーの家の足を引っ張るだけよ」

「じゃあ、僕とこの家を出てどこかの町で暮らそう。僕が一所懸命に働けば、姉さんくらい食べさせてあげられるさ」

「……ダン……!」


 彼を見ていたマグダラの目の色が、そして次にありありと表情が変わった。それを見たダニエルは「一生この想いを胸に秘める」と決めた誓いを破った事に今更ながら気づいた。だがもう手遅れだ。一度口に出した言葉は覆せない。


「いいえ……いいえ! それはダメよ。絶対に!!」


 マグダラは全てを覚り、恐怖していた。

 子供を生めない自分が侯爵家の貴重な四年間を浪費させたのみならず、まだ若く未来のあるダニエルの人生までもめちゃくちゃにしてしまう可能性に耐えられなかったのだ。

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