第40話 逃げ場の無くなった彼女は
◇
その後、ゲイリー・シスレー侯爵とその母である前侯爵夫人の話し合いは非常に揉めたらしい。だが最後まで侯爵が意思を貫き通した。
「マギーとは絶対に離婚しない。妾も取らない。後継ぎにはシュプリム伯爵家から養子を貰えばいい」
シスレー侯爵は妻を溺愛しており、手離す気などさらさらなかったのだ。前侯爵夫人は呆れ、「もう私に言う事はないわ」と荷物をまとめて屋敷を出て行ってしまった。
今は王都に構えた侯爵邸の一室で暮らしているが、以前のように積極的に他の貴族と交流を図る事はやめ、ひっそりとした生活だそうだ。それでも王宮主催の夜会など、どうしてもシスレー侯爵が参加せねばならない社交の場があれば、マグダラの代わりに夫人が付き添っているのだとか。
「マギーが出ればどうしたって噂好きの暇人どもに『まだ子供はいないの』と突つかれるからな。母上なりにこちらに気を使ってくれているんだよ」
侯爵が王都に出向く直前、妻を連れていかない理由としてこう説明を受けたダニエルは深い後悔の谷に突き落とされた。全ては侯爵家の為にと今までマグダラに厳しくしていたあの人でさえ、結局は侯爵夫妻の事を思って主張を引っ込め、ふたりを陰から支えようとしている。
(それなのに俺はなんて身勝手な人間だったのだろう)
あの時、マグダラが離縁されるかもしれないと思った時。彼女にダンと呼ばれて彼の心は浮き立ってしまった。永遠に手に入らないと思っていた存在が、もしかして自分の元に転がり落ちてくるかもしれないと期待してしまったのだ。その結果がこれだ。
彼の浅ましい想いはマグダラに見抜かれ、そして彼女を更に追い詰めた。あの日から彼女はダニエルを避けている。あからさまに嫌う素振りこそ見せないが、女主人と使用人の関係を殊更に強調する態度を取り、しかも決して二人きりにはなろうとしない。マグダラはもう二度と彼の傍で安らぎを感じる事はないだろう。ダニエルはこの身が消えて無くなればいいと思った。
「おい、ダン坊。ちょっとこっちへ」
その後、彼はスワロウに呼び出され、ひと気の無いところに移動した。スワロウは普段は好々爺とした完璧な執事の態度でいるが、ダニエルと二人きりだとくだけた素の口調になることが多い。それだけ若いダニエルに目をかけ期待している印だったのだろう。だが今日の執事長の口調はくだけていても眼に鋭い光を
「お前、奥様に気持ちを伝えてしまったのか」
「……お気づきでしたか」
「当たり前だろう。多分、気づいたのは俺だけじゃない。ミセスローレンも、旦那様もだ」
「旦那様も!?」
顔色を失ったダニエルを、複雑な表情でスワロウは見た。
「俺
「……」
「俺の知り合いで若手の優秀な使用人を求めている家があるそうだ。この四年間のお前の勤勉さと優秀さならきっと歓迎されるだろう。そこを紹介しようか?」
ダニエルは唇を噛み締め、項垂れた。
「……はい。お願い致します」
「では旦那様が王都から戻り次第、この話は進めておく」
そのあと、スワロウは少し無理をして明るい声で茶化すように言った。
「なあに。こんな田舎ではなく、もっと王都に近いお屋敷に入れば可愛い女の子にも出会えるさ。いつかお前が
「! スワロウさん……戻ってきても、良いのですか」
「勿論。お前が戻ってきても大丈夫だと思えるようになったらな」
先ほどの話は解雇通告ではなかった。このままダニエルとマグダラのふたりが同じ屋敷に居続ければ、両方が静かに己を責め続けるだろうと心配をした執事長の配慮だったのだ。
ダニエルがマグダラへの想いにけじめをつけるまでは離れて暮らす。それで平穏が侯爵家に戻ってくるだろうという見込みだった。けれども、それは思いがけない横やりのせいで当てが外れてしまった。今はシスレー侯爵が王宮に招かれ、不在の時期だったのだ。
◇
「誰か!! 奥様が!!」
ローレン夫人の金切り声をダニエルは初めて聞いた。血の気が全て抜けているのではと思われるほど、真っ青な顔をしてこちらに走って来る。
「奥様が居なくなりました!!」
彼女の手には簡素なメモが一枚。『どうか、どうかお願いですから離縁してくださいませ。探さないでください。 マグダラ』と書かれている。明らかに本人の筆跡だ。
「ああ、私のせいです。私が奥様から目を離したばかりに……!!」
ダニエルとスワロウは気が動転して泣きじゃくるローレン夫人を宥め、なんとか事情を聞き出した。つい先ほど侯爵の不在の代官としてやって来たコーネル・シュプリム伯爵が「侯爵夫人へ挨拶を」と彼女の部屋を訪れ、ニヤニヤしながらこう言ったのだそうだ。
「あんたには感謝しなけりゃな。お陰で俺の息子が次の侯爵様だ」
コーネルの一番上の子供はまだ三歳。その子をシスレー侯爵家へ養子に貰いたいと話を申し入れたところ、彼は「喜んで。ただし、まだ幼い子を母親から引き離すのは
マグダラはコーネルの言葉にショックを受け、寝室に籠り泣き伏していたという。それでローレン夫人が心が落ち着く飲み物でも用意しようと部屋を離れ、戻ってみると書置きを残してマグダラは消えていた。
ダニエルはその話を聞いて怒りで全身の血が沸騰するかと思った。これだけ明確に殺意を抱いたのは初めてだ。その矛先はコーネルに対しては勿論のこと、自分自身に対しても向けられていた。もしも彼がマグダラへの恋心を隠し続けていたならば、マグダラはオリーの家へ帰ったかもしれない。だが今の状況では彼女は実家に戻れないだろう。すぐにダニエルが追いかけてくるだろうと考えるからだ。「探さないでください」と書いてあるのはそう言う事だ。
彼が、彼女の最後の逃げ場を奪ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます