第41話 マグダラの愛と死
マグダラは侯爵家の馬車で近くの街に向かったそうだ。富裕層向けの比較的高級なレストランの前で降り「ここで友達と待ち合わせているの。彼女とゆっくり話をしたいから、夕方に迎えに来て」と一旦馭者を帰らせた。
マグダラは一瞬の隙をついて着のみ着のままで侯爵家を抜け出したのだから高級レストランには不似合いな簡素なドレス姿ではあったが、普段からそういう格好で気さくに振る舞う「らしくない」侯爵夫人で知られていたから、馭者も特に疑問に思わなかったそうだ。彼は侯爵家に戻って事情を知り、びっくり仰天して慌てて取って返した。が、当然ながらマグダラはそのレストランに入店していなかった。
そしてダニエルが「自分が彼女の帰る場所を奪った」という考えは当たっていたのだ。マグダラはオリー伯爵家に戻るどころか、連絡すらしていなかった。
ダニエルはコーネルを引き裂いてやりたかったが、それよりもマグダラを探す方が先だと
分けたうちのひとつはマグダラを探すためにあらゆる手を尽くすことに注いだ。
残りのもうひとつは、
◇
その日の夜には、無事マグダラは侯爵家に戻ってきた。
普段領民たちと積極的に関わっていたことが皮肉にも彼女のあだとなったのだ。農作業をしていた領民が「奥様こんにちは!」と声をかけたが、いつもと違いマグダラの返事に覇気が無く、供も付けずに田舎道をとぼとぼとひとり歩く様子に何かおかしいとピンと来たらしい。
彼らは「こんな機会は滅多に無いから奥様を是非おもてなししたい」と自宅に招いた。そして茶をふるまっている間に、若い衆が侯爵家まで馬を走らせ門番に連絡を入れてくれたのだった。
スワロウが馬車で彼女を迎えに行き、その間にローレン夫人とダニエルはコーネルをいつもよりちやほやして特別に良い酒を飲ませる。コーネルが酔いつぶれた後にマグダラとスワロウが帰ってきた。ベテランの執事長と言えど、頑なだった彼女の説得にはかなり時間を要したらしい。
ダニエルは執事見習いとして
「おかえりなさいませ、奥様」
ダニエルから目を逸らしていたマグダラは、ハッと顔を上げた。彼は己を殺して作り上げた愛想のよい、しかし偽りの表情と声を前面に押し出していた。
「私は奥様に先日の件を謝罪しなければなりません。いくら縁戚関係であるとはいえ、使用人の立場で慣れ慣れしく『姉さん』などと呼んでしまった事を恥ずかしく思っております。どうぞ叱責でも罰でもお好きなようにお与え頂きたく存じます」
「……いいえ。私もあなたをダンと呼んでしまったのだもの。お互い様だわ」
「その懐かしい呼び名で、奥様を
「……!」
マグダラの目に動揺の色が現れ、次いで彼女の青白かった顔色にほんのりと赤みがさした。つい先日まで彼女はダニエルの気持ちに気づいていなかったのだ。それが実は自分の勘違いだったのかと迷い始め、やがて彼が自分に恋をしているなどという考えはひどい自惚れだと気がついて恥ずかしくなったのだろう。
「しかしやはり、今の立場では許されぬ事だったと認識しております」
「いいのよ、もう。いいから」
ダニエルは微笑んだ。しかしそれも心とは裏腹の愛想笑いだった。
「奥様の広い御心に感謝致します。このアシュレイ、一生誠意をもって奥様にお仕え致します」
◇
ダニエルが己を殺したというのは勿論比喩であるし、仕事が終わって自分の部屋で独りきりの時などには本心を曝け出し、苦痛に涙する事もあった。だがマグダラの居場所がなくなるくらいなら、このくらいの痛みはなんでもないと彼は思っていた。
最近の彼女は彼を避ける事はなくなっている。逆にダニエルが一歩引き、あくまでも女主人と使用人としての線引きを守っている事すらあった。
マグダラの失踪騒ぎの直前、スワロウと話していた他家への奉公については白紙になった。ダニエルとしてはどちらでも良かったのだが、今このタイミングで彼が急にシスレー侯爵家を去れば、またマグダラに彼の気持ちを感づかれてしまうかもしれない。ただでさえコーネルの言葉で心が揺らいで不安定な彼女にこれ以上不安を与えたくなかった。
そう。心が揺らいでいたのだ。一見、以前のように明るく笑っているが、それは無理をしていると長年彼女を見ているダニエルにはわかる。
「多分、負い目を感じているんでしょう。そんなものを感じる必要はないと皆が思っているのに」
ローレン夫人と休憩時間が一緒になった時に、ダニエルは思い切ってそう言ってみた。夫人は目を伏せ、口を開く。
「……わかるわ。私もそうだったもの。夫は私が子供を産めなくても結婚したいと言ってくれたけれど……今でもやっぱり彼に対して申し訳ない気持ちがあるの。奥様は私なんかより何倍もお辛いはずよ」
おそらくマグダラは、子供が産めない代わりに他の事でなんとか侯爵夫人としての責務を果たそうとしているのだ。最近の彼女は今まで以上に領民たちと親しくしている。田畑に出て一緒に土を耕し、話を聞き、何か少しでも役に立てないかと領民と侯爵の橋渡し役を積極的に買うようになった。それ以外に街に孤児院や救済施設を建設し、貧しい人々を助ける事業にも手を出し始めた。彼女の、子供に注がれるはずだった愛情は領地の全ての民に分け与えられたのだ。
◇
そんな事を数年続けた後。悲劇は起こった。
マムート王国との戦が始まった後、戦地に近い北方地域の村で病気が多発していると聞いてマグダラは真っ先に駆け付けたのだ。シスレー侯爵やダニエルは勿論、屋敷中の皆が危険だからと反対した。だが彼女は聞き入れなかった。
「危険なんか無いわよ! 王家直属軍隊の守りは鉄壁よ。でも村の皆は病気と、いつ戦禍に巻き込まれるかの二重の恐怖を味わっているはず。そこに領主夫人が率先して村に滞在すれば、まだここには敵は来ないと皆が安心するはずでしょう? 私もこの何年かで治療の手伝いぐらいはできるようになったし、役に立てるわ!」
彼女は笑顔で北方地域に出かけて行く。それがダニエルが最後に見たマグダラの姿だった。
確かに戦禍は村には及ばなかった。だが多発していた病気は、戦争が原因の感染症だったと後に判明する。フォルクス王国とマムート王国の国境線は川。今回はその国境を巡る争いだ。川を挟むか橋の上で戦いが繰り広げられ、戦死者は次々と川に落ち、流れていく。当然それを回収する者はいない。その遺体は醜く腐敗し、病原菌の温床となり……そして川の水を汚染した。
川の遥か下流に位置する北の村では、その水を生活用水として利用している。村の大勢の人間が突然高熱や下痢に苦しみ始め、中には命を落とすものもいた。マグダラが村に行った時にはまだ原因が特定できていなかった為、感染した人に接触した人間も二次感染し被害は拡大してしまった。
マグダラが病気に感染したと気づいた時、村の人々は領主夫人に侯爵邸に帰るよう懇願した。しかし彼女は頑として首を縦には振らない。熱に浮かされながらもハッキリと言い切る。
「だめよ! この病気を他の地域に持ち込むわけには行かないわ。私を隔離してください。もしもシスレー侯爵家から誰かが来ても……たとえそれがシスレー侯爵であっても、絶対に会わせないように。それからもしも私が死ぬようなことがあれば、他の死者と同じように遺体は焼いて!」
そうして部屋に閉じこもり、最期まで誰とも会わずに過ごしたそうだ。
皆を愛し、皆に愛されたマグダラ・シスレー。彼女は夫と侯爵邸の皆に宛てた手紙だけを残し、ひとりぼっちでこの世を去った。
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