第42話 今はただ、頭を下げるのみ

 ◆



「アシュレイさんは、私を……いえ、マムートの人間を憎んでいるのでしょう? だからダンスで私の手を取るなんて耐えられない苦痛だろうと思ってしまったの」


 デボラの言葉に、アシュレイは一瞬我を失った。大量の声にならない言葉が激しい怒りに乗って濁流のように彼の頭の中を流れていく。


(その通りだ。マギーを返してくれ。愛しい女性でも姉のような存在でもなく、仕えるべき女主人としてしか彼女を見てはいけなかった。それだけ我慢して、それだけでも彼女の傍に居られればほんの少しは幸せだった。その幸せを俺から奪ったお前たちが憎い。マムートの奴らなんか全員殺してやりたい!!)


 ――――けれど本当は。


 次の瞬間、彼の口からぽろりと洩れたのはたった一言だった。


「何故」

「何故って……」


 デボラの微かな表情がもう少し色濃くなる。明らかに困っている様子だった。灰色の大きな目が半分ほど伏せられて、見下ろす形のアシュレイからは殆ど睫毛しか見えない。そのバサバサと音がしそうな深紅の睫毛がもう一度瞬いた。彼女はまた、ローレン夫人には聞こえないように小声で言う。


「……アシュレイさんだけは、最初からずっと私への敵意をあからさまにしていたんですもの。逆にこの人には裏が無くて信用できると思ったくらいでしたわ」

「!!」


 再び、アシュレイに衝撃が走った。目を見開き、よろよろと二歩下がる。三歩目まで下がったところで足を確りと踏みしめてとどまった。暫くそのまま固まった後、大きく息を吐く。


「はあ……」


 肺の空気をすべて絞り出し、新しい空気を吸い込むと固まった身体がほぐれてくる。彼は右の掌で顔の大部分を覆った。左手は腰にやる。いつものぴしりとした執事長の姿勢と比べると、随分とくだけた雰囲気だ。


「私はそんなに表裏が無くてわかりやすい人間ですか?」

「え? ……ええ。祖国向こうでは、もっと回りくどい嫌味を言ったり、罠をしかけたりする人が多かったから。真っすぐな人だな、という印象を持ったの」

「は」


 その声は一際大きく、そして次はもう少し弱く、短く連続して出された。


「は、は、は」


 最後にそれは、弱々しく悲しそうな笑い声になった。


「はははは……」


 彼は顔に当てていた手を頭にずらし、きちんと撫で付けていた髪をぐしゃぐしゃにする。


「そうか。俺は」


 ずっとマグダラの前では、使用人の顔をしていた。仮面をかぶり内心を隠し通せていると思っていた。しかし同時にずっと不安にもさいなまれていた。

 実は隠せていないのではないか。マグダラは気づいていないふりをしてるのでは無いか……と。


 スワロウやローレン夫人は「大丈夫だ」と言ってくれたが、アシュレイとマグダラは小さい頃からの付き合いだ。彼がマグダラが無理をして笑っていることに気づいたように、彼女もまた、弟のような存在が無理をしていることに気づいてはいなかっただろうか。アシュレイはずっと心の奥にその恐れを抱いていた。マグダラが亡くなるまで。


 だから、彼女が居なくなってからのアシュレイは悲しみと憎悪の感情に身を任せた。マムートへの怒りを露にした。しかし実は、心のどこかでほっとしてもいた。もう仮面を被らなくても、己を偽らなくとも良いのだと。


 ――――そんな自分もマムートと同じくらいに憎かった。己が彼女を追い詰めたのに。こうなった原因の一端は明らかに自分にあるのに。


「……こんなんじゃスワロウさんに叱られるな。内心を隠せないなんて執事長失格ですよ」

「いえ、そんな事はありませんわ」

「いいえ。本当に失格です」


 デボラのフォローをアシュレイはすげなく断った。


「アシュレイさん」


 ローレン夫人が控えめに、けれど心配そうに口を挟もうとする。

 彼がデボラ憎さ故に「敵に情けをかけられたくない」と意地を張って言っているのではと心配したのだ。少し前の彼ならそうだったろう。だが今は違う。彼は気がついてしまった……いや、前から気がついていたのに、目も耳も心も塞いで自分に嘘をついていた。


 自分がマムートを憎む気持ちは間違いない。だがマグダラの死は、隣国との戦だけが原因ではないのだ。


 コーネルが、そしてマグダラを愛す自分とシスレー侯爵が彼女に負い目を感じさせた。もしもそうでなかったなら、マグダラは率先して北方の村に駆け付けただろうか。今ごろ彼女はまだ生きていたかもしれない。

 アシュレイは薄々感づいていたその事実を今まで無視し、マムートへの怒りと憎しみで全てを上書きしていた。そして今やっと、そんな自分と正面から向き合えたのだ。


 彼はデボラを見た。彼女は表情が乏しい。いつも仮面を被っているからだ。それでも今はアシュレイの様子に困惑し、心配すらしているように見て取れた。


(俺は、今までこの人にやつあたりをしていたのだな。俺自身の責め苦から逃れるために)


 彼はローレン夫人に向かって首を振り、次にデボラに向き直ると微笑む。それは仮面を被った顔ではなく、彼の素直な心情を表した皮肉めいた微笑みだった。


「所詮私は高貴な方のやり方など知らない田舎者ですから、至らぬ点ばかりで申し訳ありません」


 そう言って頭を下げる。


 今までアシュレイはデボラの事を、マムート王国の中心で何不自由なく華やかな生活をしてきたお嬢様だと思いこんでいた。だがアシュレイの知らない華やかな世界は、きっと甘いものではなく毒の花の園なのだろう。


 前侯爵夫人があれだけ体面を気にしていた事や、馬鹿なコーネルが田舎で燻っているのを考えれば、国の中心の上流階級はそんなに単純な人間ばかりでは無いはずだ。

 デボラの言うような、嫌味や罠にまみれた魑魅魍魎の巣窟で生きていれば素直な心を表に出す機会は少ないだろう。無表情や愛想笑いだけの仮面を被った状態が普通になるのも無理はない。


 そして、デボラが初めての顔合わせでとんでもない事を言い出したのも合点がいった。確かに国の中心では政略結婚など日常茶飯事だ。


(だから「愛はなくとも子を成す夫婦も多いのにそれをわざわざ口に出すのは珍しい」と言った訳か)


 そんな彼女が、嫌味や罠など欠片もないこの温かいシスレー邸の皆に囲まれて戸惑っていたならば。あの不可思議な行動にも説明付けができるような気がした。

 アシュレイは一旦頭を上げてデボラをチラリと見てから、もう一度深く下げる。


「今までのデボラ様への無礼も含め、心からお詫び申し上げます」


 まだ彼女への疑念が完全に払拭されたわけではない。それでも。

 己のやつあたりに気づけなかった自分は経験も配慮も、そして精神のコントロールすらも、年下のデボラに遥かに劣るのだと素直に敗けを認めた。今はそれだけで頭を下げる理由には充分すぎた。

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