第43話 もう二度と
アシュレイはデボラの部屋から出てそっと扉を閉める。扉を前にして息を深く吐きながら右手を上着の中へ滑り込ませ、その手が内ポケットから再び外に現れた時には飾り紐のついた鍵を手にしていた。
彼はデボラの部屋に外から鍵を差し込み回す。小さくカチリと音を立て、扉は施錠される。これはいつもの動作ゆえ、アシュレイは完全に無意識で行っていた。
そう、無意識だったのがいけなかった。いつもの冷静な彼であれば周りの気配を感じ取り、きちんと確認をしてから行動に出た筈だ。
しかしデボラに自分の気持ちをピタリと言い当てられ、しかも今まで彼女にやつあたりをしていたという気まずさが彼の心にこびりつき、まだこの時は消えていなかった。その為彼は意識を周りに配らないまま、手慣れた動作を行ってしまったのである。
「何をしている!」
侯爵邸の廊下に響く耳障りな声に、アシュレイはハッと執事長の意識を取り戻す。もう声の主の方を見なくてもわかった。喉に絡み、若干呂律の回っていないコーネルのダミ声だ。
(しまった!!)
しかし脳内の焦りを面には出さず、彼はさりげなく鍵を内ポケットに素早く戻すとコーネルに向き直る。憎き相手への気持ちを殺し、にこやかに顔を作った。
「コーネル様、今デボラ様のお加減を確認していたところでして」
が、その言葉を口にする間にコーネルはつかつかとアシュレイへ歩み寄り、アシュレイが軽く下げた頭を上げた瞬間には右手を大きく振りかぶっていた。
ゴッ、かドッ、か。
どちらでもなく、どちらでもあるような音と共にアシュレイは左頬に大きな衝撃を受け、身体を地面にとどめきれずふらついた。壁に身体を預けると頬が熱く脈打ち、次の瞬間追って凄まじい痛みが襲ってくる。拳で力まかせに殴られたのだとわかる前にコーネルとスワロウの叫び声が交じり合った。
「この野郎!!」
「コーネル様! いけません!」
「ふざけるな!! お前もグルだろう!」
今度は確実にドカッという音がした。アシュレイはくらくらとする頭と狭い視界で何とかそちらを確認する。コーネルが赤い顔で足を上げており、スワロウが腹部を押さえて倒れるところだった。おそらく止めようとしたスワロウの腹を真正面から蹴り飛ばしたのだろう。酔ったせいで力の加減が利かないまま。
そのコーネルが荒い息を整えもせずこちらを向く。
「……それを寄こせ」
「?」
「マスターキーだ!! それを持ってるって事は執事長はお前なんだろ! よくもこの俺を騙したな!!」
「!!」
その通りだ。コーネルを暫くこの屋敷に近づけさせなかった間に執事長はスワロウからアシュレイに引き継がれていた。だが、彼は並々ならぬ感情をコーネルに抱いている。アシュレイがコーネルに募らせている恨みを隠しきれないのではと心配したスワロウが、自分が執事長のふりをする事でコーネルの対応を一手に引き受ける役を買って出てくれたのだ。
だがそれがまさか逆効果になるとは。アシュレイは頬の痛みと熱を一時的に忘れるほどに背筋が寒くなった。この鍵をコーネルに渡せばどうなるか、考えただけで恐ろしかったからだ。内ポケットを服の上からぎゅっと押さえる。
「いいえ、鍵はお渡しできません。これを持っていいのは私と旦那様だけです!」
「何を! 使用人の分際で俺に逆らう気か!!」
コーネルは赤ら顔を更に真っ赤にしてもう一度右手を振りかぶる。だが今度は不意打ちを喰らわなかったアシュレイは両腕で急所を庇い、腕を少し殴られただけですんだ。そしてスワロウが立ち上がり、コーネルを後ろから羽交い絞めにする。
「おやめください!」
「ふざけるな! お前ら……」
尚も暴れようとするコーネル。アシュレイは前から彼の腕を押さえた。持てる力の限りを、コーネルの腕を握る手に込める。
「もう二度と貴方に
アシュレイはまだデボラをゲイリーの妻だと……この屋敷の女主人だと認めたわけではない。けれども。彼女にやつあたりをした自分が恥ずかしかった。デボラはそんな事はなんでもなさそうに振舞っていたが、それでもこれ以上自分の目の届くところで彼女を傷つけるわけにはいかないと思ったのだ。
廊下で揉みあう三人の大声はすさまじく、それは他の者の耳にも届いた。だからだろう。使用人たちが何人も駆け寄ってきた。そして他にも。
「おやおや。これは派手にやったね」
その声が聞こえた瞬間。ふっとアシュレイの力が軽くなった。コーネルが暴れなくなったのだ。
(……間に合った!)
アシュレイはその声に心より安堵した。途端、頬の痛みと疲れでくたりと力が抜ける。コーネルを挟んで反対側のスワロウも同じようだ。そしてそのコーネルは一気に酒気が抜け、真っ青な顔をして立ち尽くしていた。声の主、ゲイリー・シスレー侯爵を見つめて。
「なんで……お前が……ここに」
と、ほぼ同時にアシュレイの背後、デボラの部屋からガチャリと扉が開く音がした。彼が振り返ると隣国一の美女が目を丸くしてこちらを眺めている。
「……旦那様、おかえりなさい……?」
「ああ、デボラ、ただいま」
こんな時になんだが、アシュレイはデボラの機転に感謝した。彼女には何も知らせていなかったのに。ここに屋敷の外の人間が
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