シスレー邸を救ったのは完璧だった〇〇と完璧だった〇〇

第44話 一回言ってみたかった

 ◆


 それはほんの少し前の事。


 扉の外の騒がしさに、デボラとローレン夫人は顔を見合わせた。おそらくアシュレイ、スワロウともう一人、聞き慣れない声の男性が言い争っている。デボラはその声の持ち主が例の侯爵の従弟殿であると直感で思った。思わず扉の近くへ歩み寄る。


「いけません、デボラ様」


 見事な間の取り方で、するりとローレン夫人が扉の前に立ち塞がった。


「でも……」


 外の世界のただならぬ雰囲気に、デボラも「はいそうですか」と簡単には引き下がれない。そのままためらっているとアシュレイの叫びが扉越しに聞こえた。


「もう二度と貴方に奥様は傷つけさせない!!」

「!?」


 再び、デボラと夫人は見つめ合う。今度は互いの表情の乏しい顔に、不思議そうな色が混じるのを確認しながら。

 ローレン夫人はアシュレイがデボラを「奥様」と言った事に疑問を抱いた。しかしデボラは違った。元々建前だけの付き合いをうんざりするほど経験してきた彼女は今のアシュレイの言葉を聞き、コーネル・シュプリム伯爵の前ではきちんとシスレー侯爵の妻のふりをした方が良いのだろうと即座に判断したのだ。

 彼女が引っかかったのは「もう二度と」の方だった。


(……つまり、前の奥様が傷つけられた?)


 そう考えた瞬間、部屋から出るなと言われたことやローレン夫人が「旦那様はあの方をデボラ様に会わせたくないのだと思います」と言っていた意味がわかった気がした。元々シスレー邸の皆はシュプリム伯の事をよく思っていないと感じてはいたが、そんな過去があったとは、とデボラは小さく驚いた。そして。


 改めて、世はままならぬものだとも彼女は思った。かつてマムートでは公爵令嬢で王太子の婚約者だったデボラ。美しさや振る舞いから令嬢達の見本や憧れとして扱われていたが、誰にも愛されることはなかった。

 一方で誰からも愛され、シスレー邸で生きている間はあまり苦労などしていなかったように思われるマグダラも、実はそうではなかったのかもしれない。


「おやおや。これは派手にやったね」


 その時。扉の向こうから聞こえてきた声にデボラは固まった。聞き間違えようがない、いつでも低く、落ち着いたあたたかい声。早朝に王都へ向かって出発した筈の、ゲイリー・シスレー侯爵のものだ。

 思わずローレン夫人の顔を見ると彼女は少しだけ気まずそうにしていて、先ほどの鉄壁のガードが少々弛んでいた。デボラはそれに乗じて夫人の横をすり抜け、内鍵を開けて扉を開く。


 がちゃりと重い金属音が手元で鳴る。そこに混じって開いた扉の隙間から「……んで、お前が……」という声も聞こえた。扉がゆっくりと開かれ、その間から見えた光景にデボラは目を丸くする。


 見知らぬ男がひとり・・・いた。やや肥えた身体とたるんだ顎の見た目は、シスレー侯爵よりも年下とは思えなかったが、彼が間違いなく侯爵の従弟であるシュプリム伯であろう。肩で息をするスワロウと、へなへなと力が抜けて膝をついたアシュレイが密着するほど近い距離で彼の側にいるからだ。三人とも着衣が乱れ、揉み合っていたのだろうとわかる。それが中断されたのは、今ここにいない筈の人間がいるからなのだろう。


「……旦那様、おかえりなさい……?」

「ああ、デボラ、ただいま」


 彼女の名義上の夫、シスレー侯爵は優しく微笑んだ。


「ゲイリー、お、お前なんで!」


 コーネルが声を震わせながらも怒鳴る。だが侯爵はその怒号をそよ風かのように流した。


「なんでここにいるかって? 確かに私は今朝王都に向かって出発はしたがね。今回の主な目的はある人に相談をすることだったんだ」


 彼は横にいる軽装にマント姿の男性を見る。男性もこのような状況にも関わらず、落ち着いて微笑み、頷いて見せた。


「ところが大変な偶然で・・・・・・、そのご本人が隣の領地で鷹狩りをするためにこちらに向かっていると知ってね。急遽予定を変えて合流し、我が家でおもてなしでもと思ったんだが……」


 シスレー侯爵の声が一際低くなった。いつもは優しく細められているスカイブルーの瞳に剣呑な光が宿る。


「帰ってきてみればこれだ。コーネル・シュプリム伯、君が代官の仕事を全うしていないという報告は何度も受けていたが、まさか使用人に手を上げるまでしていたとはな」

「あっ……いや、それは……こいつが使用人の分際で俺に逆らうから……」


 コーネルの言い訳を侯爵はぴしゃりとはねつけた。


「彼らはの使用人だ。君のではない。彼らは私の命令で動いている。逆らっているのはどっちだ!?」

「あ……」

「それに私は確かに聞いた。執事長が『貴方に奥様は傷つけさせない』と言うのをね。君は昼間から酒の臭いを漂わせて、私の妻の部屋に押し入るつもりだったのか」

「いや、それは……」


 またもや言い訳をしようとしたコーネルは口をつぐんだ。いつの間にかシスレー侯爵の愛想笑いは消え、真顔の眉間に縦一文字の皺がくっきりと刻まれている。青く静かな怒りの炎を纏っているようだった。


「あ……」


 ついにコーネルはぶるぶると震えだす。その様子を見ていた、シスレー侯爵の傍らの男性が小さく吹き出した。


「ふふふ、シスレー侯、君がそんなに怒りをはっきりと表すのは初めて見たぞ。だが確かにコイツは酷い。これだけ酒臭ければ代官の仕事を放棄している証拠でもある。この場でクビにしていいぞ」

「な、何を……部外者の分際で勝手なことを言うな! 俺は国に認められた代官だぞ!! なんの権利があって口を出す!」


 どうやらコーネルは人を見て態度を変える人間らしい。相手は侯爵の客だと言うのに、あまり立派ではない男の服装を見て伯爵の自分より身分が低いと踏んだのだろう。少々強気な態度で反論した。

 反論された客人は目を丸くするとまた吹き出した。くつくつと笑い出す。


「な、何がおかしい!」

「いやあ、これ、一回言ってみたかったんだよねぇ。……余の顔を忘れたか?」

「は!?」

「ふふ、わからないか。しかしタダで答えを教えてはつまらないな。侯の奥方ならおわかりになるかな?」


 その場の全員の目が、デボラに集まる。

 デボラは一瞬躊躇ったが、すぐに切り替えてしずしずと男の前に出た。そして片足を引き、頭を下げて完璧な淑女の礼を取る。


「お久しぶりでございます。またお目にかかれて大変嬉しく思いますわ。リオルド・シャード・フォルクス王子殿下」

「ああ、久しいな」


 軽装の男性の正体がこの国の第二王子である事に、シスレー侯爵とデボラ以外の全員が仰天した。

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