第33話 コルセットとハンカチ
デボラが身支度を終えると、少し遅めとなった朝食が部屋に運ばれた。いつもの新鮮なサラダに、スクランブルエッグとパン、温かいスープである。しかし彼女の食はあまり進まない。
「……大丈夫ですか? やっぱりまだお粥の方が良かったのでは。用意させましょうか」
心配したのか、ローレン夫人が声をかけてくれた。デボラは気まずそうに目を伏せる。
「いいえ、違うの」
「?」
「あの……久しぶりに着たら、コルセットががちょっときついみたいで」
「まあ!」
珍しく夫人の眉が少しだけつり上がった。
「普通に着ているぶんには良いのだけれど、食事でお腹が膨れてくると、ちょっとだけ苦しくて……」
デボラがシスレー邸に来て三週間ほど。最初の三日を除いてはずっと、身体を締めつけない簡素なドレスで過ごし、毎日料理長の温かく美味しい料理を食べていたのがどうやら原因らしい。
「太ってしまうなんて恥ずかしいわ……」
みるみる内にデボラの頬や首が赤く染まり、彼女は目だけではなく顔も伏せてしまった。
「いいえ! デボラ様は胸元はともかく、腕やら腰やらが細すぎるんです!! 少しくらい太った方が健康的で丁度いいですよ」
「そんなことは……」
「あります! 世の殿方の大半は、痩せぎすで細い女性よりもふっくらしている女性の方を好まれると聞きますし!」
「そ、そうなの?」
デボラは戸惑い、僅かに首を傾げつつも一応ローレン夫人の言葉を受け入れた。そしてふと考える。
(侯爵様も、ふっくらしている方がお好みなのかしら……)
マグダラの肖像画は鎖骨辺りから上しか描かれていなかったが、彼女の薔薇色の頬が丸く描かれていた点を見る限りはそのようだ。
そこまで思い出してから、デボラはハッと気づく。
(嫌だわ。何故こんな事を考えたのかしら)
自分がシスレー侯爵の好みであろうとなかろうと、そんな事は関係ないのだ。彼は前の妻しか愛していないし、敵国から来たデボラを「愛することはない」と断言しているのに。
デボラは考えを振り払うように軽く首を横に振ると、ローレン夫人に向き直った。
「でも、これ以上太っては本当にコルセットを着けるのが辛くなってしまうわ。お昼はやめておきます。それと、軽く身体を動かせないかしら」
しかし現在の彼女は、暫くは私室から出ないようにと言われている身。それで身体を動かすとなると選択肢は限られてくる。デボラは少し考えて提案をしてみた。
「……例えば、ダンスの練習とか」
ローレン夫人は少し躊躇うような素振りで口を開く。
「旦那様以外で、この屋敷でデボラ様のダンスのお相手が務められる者は居ないと思います。少し考えさせていただいても?」
「いえ、いいの。ただの思いつきだったから。我が儘を言ってごめんなさい」
「我が儘……」
夫人の表情がまたピクリと少しだけ変わった。何か思うところがあったのだろうか。
「……とにかく、コルセットを少しだけ弛めましょう。私が少々きつく締めすぎたのかもしれません。申し訳ございません」
デボラはローレン夫人の言葉を「そんなことはない」と否定しつつも、前半の提案は喜んで受け入れた。
食が細かったり、苦しくて気が遠くなったりしてはいつまで経っても元気になったとは認めて貰えない。
そうこうしている間にスワロウが侯爵不在の間の役目を終えて屋敷を去ってしまいでもしたら、また辛い話を最初から他の人に話さなければならなくなってしまう。
デボラは少しだけ焦っていた。とにかく早く「自分は元気だし、言っていることも冷静だ」とスワロウにアピールをしなければ、と。
◆
コルセットを少しだけ弛めたお陰で朝食は無事完食できた。だが庭の散歩も禁じられ、ピアノを弾くこともダンスの練習も出来ないとなれば身体を動かすことは諦めるしかなかった。
デボラはまた手持ち無沙汰になってしまったが、部屋から出てはいけないのだから厨房やメイドの手伝いも出来ない。仕方なく新しい刺繍の図案に取りかかることにした。
「何が良いかしら……」
「デボラ様なら何を刺されてもきっと良いものになるでしょう」
「まあ、ミセスローレンったらお上手ね」
デボラはそう返してから、ふと黙り込んだ。灰色の目がまたガラス玉のようになり陰りを見せる。
(本当は、ここの皆に、それぞれの名前の刺繍を入れたハンカチでも贈る事ができれば良かったのだけれど)
シェリーがトムの手当てに自分のハンカチを使えと言った時 、デボラがそれではシェリーのハンカチがなくなると指摘すると、確かに彼女はぐっと動きを止めた。
平民の使用人の身で上等なハンカチを沢山用意できる者はそう居ないだろう。一方デボラが祖国から持ってきた荷物の中には絹のハンカチも、これから刺繍に使うための絹の生地も充分な量が用意されていたのだ。
しかし、もうデボラは知ってしまった。この家に残るマグダラの面影を、自分という敵国から来た異物が脅かしているという事実を。
――――或いはそれは事実では無いかもしれない。だが、少なくともデボラの中ではそれが事実だと認識している――――
きっと自分が皆にハンカチを贈っても困らせるだけだろう。表向きは喜んだふりまでするかもしれないが、微妙な気持ちになるに違いない……と、彼女は考えた。
「……デボラ様?」
ローレン夫人の遠慮がちな声にデボラはハッとして、そして完璧な愛想笑いでにっこりと答える。
「なんでもないわ、図案を考えていただけ」
そう言って白い生地に刺繍の下書きを始めた。特に目的もないが、できるだけ暇が潰せるように、複雑で長い蔓草模様を描いていく。
ローレン夫人は無言でその様子を眺めていた。
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