第34話 庭師とメイド長は食卓を囲む

「はい、持ってきたわよ」


 ローレン夫人は夫の仕事場のひとつ、温室の隣に作られた簡素な木のテーブルの上に昼食を置いた。


「ローラ、ありがとう。おっ、今日の飯も旨そうだな」

「ちょっと! 手と顔くらい洗っていらっしゃい!」


 注意された夫は首をすくめ、素直に井戸に向かった。彼は庭師の仕事に没頭すると時を忘れるという悪い癖を持つ。結果、昼食の時間になっても全身土まみれのままで、使用人用の食堂にも入れない……となる事が日常的にあるのだ。


 そんな時夫人は彼の昼食をトレイに乗せ、ここまで持ってくると言う訳である。今日は自分の分も一緒に持ってきており、二人で食卓を囲む。


「うん、旨い。ヴィトのやつ、また腕をあげたな」

「そういう事は面と向かって言っておあげなさいよ。あなたったら滅多に食堂で食べないから、感想が聞けなくて料理長が寂しがってるわ」

「おや、寂しいのはヴィトだけかい?」

「?」


 ローレンはニヤリと笑みを見せる。


「俺が食堂に居なくて寂しいから、ローラはこうして来てくれてるんだろ?」

「!」


 夫人は無言、無表情ではあったものの、手に持つ匙がプルプルと震え、その上に乗っていた豆がころりと皿にこぼれ落ちた。


 その様子を見た夫のローレンは更にニヤニヤ笑いが深まったが、蛇の雰囲気を纏う元々の悪人顔が災いして、実に悪い笑みに見える。本当は他意はないのだが。


「……もう! そうやってからかうつもりなら私は食堂に戻りますからね!!」


 夫人は勢いよく席を立ち、まだ食べかけの昼食のトレイを持ち上げようとした。夫は慌ててそれを止める。


「ああ、悪かった! からかったんじゃねぇや!」

「じゃあ何だと言うの!」

「……お」

「お?」

「俺も、お前が居ないと寂しいってことだよ……」

「!」


 これには無表情だった夫人も目を丸くしてポカンと口を開けた。そのまま重力に従うようにストンと席に座る。庭師は頬を僅かに赤らめ、頭をくしゃくしゃとかいた。


「ああくそ、何を言わせんだ……」

「……ご自分で変なことを言い出すからでしょう」

「ん? それ照れ隠しのつもりか?」

「その言葉、そっくりお返しします」

「はっ」


 また庭師はニヤァリと笑った。それを見たメイド長も微笑む。悪人顔のローレンと一見四角四面に見える夫人は、もう15年以上連れ添っているが実は仲睦まじいのである。しかしながら、その睦まじさは普通の夫婦とは少しだけ種類が違うかもしれない。先程のように、僅かな皮肉を織り混ぜた会話を時折楽しむのが二人のやり方なのだ。


 二人は食事を再開した。また夫が「旨いな」と呟いたのをきっかけに、ふと夫人の手が止まる。彼女の視線が遠くに彷徨った。


「……? どうした、ローラ」

「ああ、いえ、何でもないわ」


 そう言いながらも彼女の食事は進まない。自分の皿に盛られた温かい豆と肉の煮込みをじっと見つめ、ポツリとこぼした。


「……私って、自分で思っていたよりずっと単純で幸せな女だったのね」

「ん?」


 庭師は顔を上げ、妻の顔をまじまじと眺める。妻はそれにハッと気づき、すぐさま訂正した。


「あ、私は今、幸せよ? あなたと結婚して良かったと思ってるわ!」

「なんだよ、焦ったじゃねぇか」

「でも、あなたを幸せにすることは出来なかったと思っていたの。私は……あなたの子供を産めないから」

「おい、まだそんな事を言うのか……」


 ローレンの目がキラリと光り、ざぁっと音がしそうな程に剣呑な雰囲気が立ち昇る。子供の話は二人の間では禁句と言っても過言ではなかったからだ。


 妻にとって彼とは二度目の結婚だった。


 裕福ではない子爵家の娘だったローラは政略結婚でとある貴族に嫁入りした。しかし産まれてきた子供は死産だっただけでなく、もう子供が望めない身体だと診断されて離縁された。実家にも戻れなくなった彼女はかつて行儀見習いで勤めていたシスレー侯爵家を頼り、再びメイドとして勤めだしたのだ。今度は腰掛けではなく一生使用人としてこの家に骨を埋めるつもりで。


 その際に貴族籍も抜けて平民となった彼女を最初のうちは「くそ真面目な女だ」とからかっていた庭師が、やがて本気で口説くようになったのである。ローラは自分が子供を産めない身体であるとローレンに打ち明け、一度目は求婚を退けた。

 ところが彼はそこで退く男ではなかったので、求婚とお断りが何度も繰り返されるという奇妙な関係が数年の間続き、最後にはとうとうローラが根負けしたのであった。


 そういった経緯から、彼女が子供を産めないという話を持ち出した途端「まだ言うか」とローレンの機嫌が悪くなったのは無理もないのだ。だが、夫人には別の意図があった。


「あの、違うわよ! 私が言いたかったのは……なんて言えばいいのかしら。あのね、デボラ様の事よ」

「あん? あのお嬢様がどうしたって?」

「あの人……今まで自分の国では満足にご飯も食べられなかったんだわ」

「は? 公爵令嬢で王太子の婚約者が食うに困るなんて事、有るわけないだろ!?」

「違うのよ……今日から暫くは、デボラ様はいつものワンピースではなくてきちんとしたドレスを着るようにと旦那様に言われているの」

「? それがどうした」


 ローレン夫人にしては珍しく要領を得ない話に夫は少々困惑している。


「久しぶりにデボラ様のコルセットを締めたんだけど、それで食事が喉を通らなくなってしまわれて」

「は? コルセットってぇーと、あの、腰を細くするやつか。確かにあんなに細かったら食うものも食えないな」


 ローレンはようやく、妻が何を言いたいのか糸口を見つけたようだ。


「それにね。私も昔、ちらっと聞いただけだから自信が無いのだけれど、高貴な御方は毒見を済ませた料理しか食べてはいけないのですって」

「へえぇ! 毒を盛られない為か。そんなんじゃ確かに食欲も失せるな」

「食欲も減るし、毒見係が無事なのを確かめてからでないと食べられないから、料理も冷めてしまうそうなの」

「……なるほど」


 二人はデボラが現れた日の姿を思い出す。豪奢なドレスに包んだ身体は折れそうな程に細い腰と細い首を伴っていた。あの時はなに不自由なく暮らしている、高慢な貴族のお嬢様だと思っていたのに。


「温かい料理も食べられず、責任も重いお立場でいらしたのに将来を誓っていたお相手が病にかかられて婚約は破棄、そして次は国の為に人質の生活でしょう? でもここでも何かの役に立ちたいって仰るのよ」


 ローレン夫人はまた遠くを見た。ダンスの練習なんてちょっとした望みも「我が儘を言ってごめんなさい」と言う彼女。祖国ではどれだけ窮屈な生活だったのだろう。それこそ強く締めたコルセットよりも。


「……それに比べたら自分だけの不幸を嘆いていた私って、なんて単純だったのかしらって思ったの」

「まぁ……ううん、俺には難しい事はわかんねぇけどよ」


 ローレンは妻にこう言った。


「幸せとか不幸とかは他人と比べるもんじゃねぇや。ローラにとって辛いことは辛いことで間違いなかった。だけど今が幸せならそれでいいじゃねぇか」

「!……ええ、そうね」

「俺は今、お前といられて幸せだし、デボラ様がこの国で少しでも幸せを感じてくれればもっと良い。違うか?」

「そう……ね」


 夫の言葉に少し救われた気持ちになりつつも、ローレン夫人の心中は完全には平穏にはならなかった。

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