第35話 夫人の心の中の靄(もや)
ローレン夫人の心が完全に晴れなかったのは、幾つかの理由がある。その幾つかがグチャグチャに絡み合い、毛玉のように固まって彼女の中から消えてくれない。
ひとつはマグダラのこと。
ローレン夫人は自身の経験からマグダラの辛さを誰よりもわかっていた。だからシスレー邸の女主人であった彼女にメイド長として仕える一方で、時には彼女を妹のように愛し、労わり、支えてもいたのだ。
そのマグダラを喪った時、夫人の心に開いた穴はとてつもなく大きく、「何故奥様の代わりに自分が死ななかったのだろう」と自らを責めさえした。夫がそばにいてくれなかったら、今頃どうなっていたかわからない。
だから敵国を憎んだ。マグダラの命を奪った隣国の全てが憎かった。
その憎い国から花嫁が来る事になったと聞かされた時、まだ喪に服している最中だったローレン夫人は激しく動揺し、深く悩んだ末にとても平常心では迎えられないと主人に訴えたのだった。
「それなら暫く休暇を取れば良い」
シスレー侯爵の答えは、彼女には意外なものだった。
「スワロウも引退した今、君が居ないのは確かにこの家にとって痛手だ。だが君の心の平穏を保てないのはもっと困る。……マギーの遺言を覚えているかい?」
言われて初めてローレン夫人はハッとした。大好きだった、妹のように愛していた女主人の最後の手紙。それをシスレー侯爵に見せて貰った時の衝撃は大きかった。
『誰も恨まないで。憎まないで』
マグダラは、自身の死で屋敷の皆がマムート王国を恨み憎むと……それだけ自分が愛されていると知っていた。そして彼女も皆を愛し、皆が心を黒いもので塗りつぶされる事を死の間際まで心配していたのだ。
(それに比べ、私はなんて愚かな真似を……)
悲しみと憎しみで目が曇り、肝心のマグダラの遺言まで忘れてしまうなんて、と夫人は自分を恥じた。シスレー侯爵は微笑んだが、その微笑みには僅かに悲しみが混ざっているようだった。
「もしも彼女が生きていて、人質を預かる事になったら、と考えてみたんだ。マギーならきっと……」
「たとえ敵国から来たスパイでも、精一杯おもてなしをするでしょうね。『私が育てた野菜です。是非食べて!』と笑顔で勧めそうです」
「ふっ……ははっ、その通りだ」
主人は今度こそ屈託のない笑顔になった。
「そこまではせずとも、やはりマムートの令嬢にはきちんと対応して欲しい……だが、これは私の我が儘だとも思う。先ほども言ったように君の心の平穏が一番だ。君には休暇を取る権利があるからね」
ローレン夫人は暫し考え込んだ後、首を横に振った。
「いえ、休暇はまたの機会に」
そうしてデボラをこの家に迎えたのだが、彼女が初対面でいきなり失礼極まりないことを言い出したので、夫人はついカッとなってしまった。
(ゲイリー様は奥様を亡くした悲しみを堪えて、精一杯居心地の良い環境を与えようとしているのに!)
だが、後でよく考えてみれば、デボラだけに非があるわけでもなかったのだ。そもそも最初にシスレー侯爵の方から人質とはいえ結婚初日の花嫁相手に「君を愛することはない」と言い出したのだから、これも充分失礼といえば失礼である。
それに、デボラは恐らくマグダラが戦争のせいで最近亡くなったという事情を知らなかったのだと今ならわかる。てっきりこちらの情報を事前に得ているのだとばかり思い込んでいた。だが、先日のシュプリム伯爵の話をした時の勘の良さを考えれば、今までの行動はマグダラの事を知っていたとは思えない。
そういう諸々の経緯があり、夫人は最初だけデボラに冷たかったことを少々負い目に感じていた。これがふたつめだ。
みっつめは、デボラの年齢。今の夫の前で子供の話は禁句だ。だから彼は気づいているかもしれないが、あえては言えなかった。
彼女が最初の結婚で産んだ……産まれた時に既に息がなかったあの子は、女の子だった。もし生きていればデボラと同じ年の。
元々あの子の年齢と同じ年頃の女の子を見る度に夫人はそのことを思い出さずにはいられなかった。デボラは自分とは比べ物にならないほど美しいのだから、我が子と重ねるのはおこがましいが、それでも彼女の無表情を見ると表情の乏しい自分が産んだのだから、あの子もそうなったかもと考えてしまう。そして娘と同じ年の女性が運命に翻弄されながらも人質として精一杯健気に生きようと「何か役に立ちたい」と言っているのは、正直なところ胸にちいさなつまりのような物を感じる。
「ああ、でも……」
ここまで夫人は無言でぐるぐると考えていたが、思わず一言呟く。
でも、この、心の中の
メイドの真似事や厨房の下働きをしたり、庭師と会話をした翌日に「愛想笑いを止めるよう努力してみる」と言っていた彼女が、今日は完璧な愛想笑いをした。あれは自分達に対して一線を引いていたように思える。 まるでこのシスレー邸にやって来た初日に逆戻りしたように。
ただの気のせいかもしれない。デボラが初日のように豪華なドレスを纏い、完璧な令嬢の姿をしていたからそう見えたのかもしれないし、シェリーの言うように彼女は気まぐれな猫のような性格なのかも。あるいは、夫人の少しだけ心配性な性格がもたらした杞憂の可能性もある……
「ちっ、もう来やがったか!」
夫の言葉で夫人はハッとした。遠くから馬車の音が微かに聞こえる。
「大変! 私、もう行くわね」
席を立ち上がった夫人を制し、ローレンは先に走り出した。
「俺の方が早い! 皆に伝えてくるからお前は後からゆっくり食器を持ってこい」
「ありがとう!」
メイド長は手早く二人分の食器をまとめ、既に小さくなっていた庭師の背中を追った。『招かれざる客』……いや、『歓迎されざる主人』とも言うべき人物をこれから出迎えなくてはならない。
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