第9話 誤解が薄まり、また深まる

 ◆



「……と、デボラ様が仰いました」


 ローレン夫人の報告にシスレー侯爵の眉が上がり、ほどなく僅かに下がる。


「私が部屋を出た後はシェリーが部屋についておりましたが、デボラ様は頭を押さえて小さく呻くような声をあげていらしたそうです」

「ほう」

「申し訳ございません。私は何かデボラ様のお気に障る様なことをしてしまったのでしょうか」


 シスレー侯爵は横に居た執事に目をやる。愛想の良い彼はその目の色だけがいつもより冷ややかになっている。


「アシュレイ、ミセスローレンにさっきの話を」

「……しかし、マムートから話ですから信憑性が」

「真実かはこの際どうでもいい。今回の経緯はミセスローレンにも知っておいてもらいたい。それにどうせそのうち噂話でこちらにも流れてくるだろう。その時に話がどれだけ歪められているかはわからないからね」

「……かしこまりました」


 アシュレイは手短に語る。王太子だったアーロンが夜会でデボラを糾弾し一方的に婚約破棄をしたと聞くと、流石のメイド長も「まあ」と声を漏らした。


「そんな馬鹿馬鹿しい話があるわけないと思うでしょう? これがアーロン王子の芝居だったんですよ」

「芝居……? どういうことでしょう」

「アーロン王子は不治の病だそうです。既に王太子の座を降りました。王の座を継ぐのは王弟になるとか」


 ローレン夫人は小さく息を呑む。


「アーロン王子は病気を伏せ、愚かなふりをしてデボラ様との婚約を破棄したそうです。そうすれば彼女は無傷で自由になれると」

「そんな……それではデボラ様がこちらに来る必要が全く無いでしょう? マムートで幾らでも良いご縁があるでしょうに」

「彼女は王子の病気を後から知らされ、愛する王子と添い遂げられないなら、せめて王子が安らかな生涯を送れるよう国に身を捧げると言い、進んで人質になる事を選んだとか。マムートの国民の間では既にこの話が広がり、デボラ様は悲劇のヒロインで心美しい聖女のような扱いだそうですよ」


 アシュレイは最後にフンと鼻を鳴らしたが、ローレン夫人の眉が僅かではあるが悲しげに寄せられているのを見て、自分と意見が違うと気づき付け足した。


「出来すぎた話だと思いませんか? 私はこれを聞いた時全てマムートが仕組んだ嘘で、やはりあの女性はスパイの為の替え玉なのではと思いましたがね」


 アシュレイの言葉にシスレー侯爵は肩をすくめる。


「替え玉の線は無いだろうと言っただろう? まあ、彼女が本物でもスパイだという可能性は十分にあるがね。この話がデボラ嬢をこちらに送り込む為の作り話というアシュレイの考えはまあわかるが……しかしその為に王太子を降ろすのまではやりすぎだろう」


 シスレー侯爵をじっと見つめ、こくりと頷いたローレン夫人が何か言いたげだと気づいた侯爵は彼女に話すよう促す。夫人は口を開いた。


「……デボラ様はマグダラ様とは正反対の方です。マグダラ様は貴族女性としては明け透けで……少々お転婆とも言ってよく……でもそれがとても魅力的でした。私はあの方が大好きでした」


 シスレー侯爵の亡き妻について語りだしたローレン夫人の能面のような顔が、雪解けの日射しのごとくふわりと柔らかくなる。今までデボラに見せていた固い表情とは全くの別人だ。だが、デボラについて言及するとまた固くなる。


「デボラ様はまるで淑女の見本です。きっと何をされても完璧にこなされるのだと思います。薄く微笑んでいらっしゃいますが本心は簡単には表に出さない方でしょう。私はあの方をとても冷たく、情よりも実利を取る女性なのだと思っていました……でも」


 ローレン夫人は表情を固くしたまま、目を伏せた。


「あの、婚約破棄の物語を読んだ後、私に見せたデボラ様の辛そうなお顔は淑女の仮面が少しだけ崩れたように……本心を漏らしていたように思うのです」

「それも演技かもしれない」


 アシュレイが挟んだ言葉にローレン夫人は反発する。


「アシュレイさん、あなたはあのお顔を見ていないからそんなことが言えるのです。デボラ様があからさまに嘆いたり、泣くそぶりでもしていれば私も演技だと思ったかもしれません。でも」


 ローレン夫人の脳裏にデボラの顔が浮かぶ。まるで計算されて作られたかのような美しさが、余計に心無い生ける人形の様だと思わせる彼女。その彼女のガラス玉のような灰色の瞳が、あの時一瞬だけ揺れて人の心が垣間見えた。


「あの、やもすれば見過ごされてしまいそうな些細な表情と言葉は本物だと思います! ……スパイかどうかはわかりませんが、少なくとも王子様のご病気と婚約破棄の話は本当なのでは」

「……」


 ひとときの間、執務室を静寂が包む。メイド長は自分の発した言葉にきまりが悪いのかなんとなく落ち着かない様子だし、執事はメイド長の言葉を疑うわけではないが、かといって肯定もしたくない為なんと反論したものか思案していると言った風情だ。

 静寂を破ったのは主人である侯爵だった。


「うん、ミセスローレン。私は君が長年の経験で培った人を見る目を評価している。だから君が言うデボラ嬢の印象も信頼できる……だが、残念ながら私達は直接は見ていないからね。少し惜しいことをしたな」


 シスレー侯爵は微笑んだ。


「こちらの情報を渡すつもりはさらさらないが、どうやら少しはデボラ嬢と話をした方が良さそうだ」

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