第16話 料理長はどうやら気に入った様子
デボラは玉ねぎの皮をひたすらむいた。目から溢れる涙を止めることも出来ずに。
ローレン夫人とピーターにその姿を見せた羞恥心が更に彼女の目頭を熱くさせるが、暫くすると玉ねぎの容赦ない攻撃はなりをひそめたのか涙は徐々に引いていった。だが慣れない作業に腕は重だるくなり、白魚のような指先は泥で汚れ、手もエプロンも小さな茶色い皮まみれである。
「デボラ様、あとは自分がやりますから……」
見かねたピーターが気まずそうに声をかけてくる。デボラはまだ潤みの残る目で彼を見上げた。
「お願い。もう少しやらせてちょうだい」
「はっ、はひぃ!」
デボラの懇願にピーターは真っ赤になり右往左往した挙げ句、むき終わった玉ねぎを掴み厨房の洗い場でじゃぶじゃぶと洗い出した。
汚れが落ちた玉ねぎは白い肌が一層つるりと白く輝いている。ピーターはそれを再びむんずと掴み、今度はまな板のある調理台の前に移動した。
根と頭の食べられない部分を落とすと、半分にストンと割る。半球の形を伏せるようにまな板に置いたピーターは素早くリズミカルに包丁を動かし始めた。
トトトトト……
見る間に玉ねぎは薄くスライスされていく。目の前の光景にデボラは思わず皮をむく手を止め、ピーターの手元に釘付けになった。
「ん」
ひと玉ぶんを切り終わったピーターは手を止め、スライスした一枚をつまみ上げて確認した。その速さも見事だったが、玉ねぎの切片はレースのように透けて見えるほどの薄さに仕上がっている。
「凄いわ……もっと近くで見ても良いかしら?」
思わず調理台の向こうから身を乗り出そうとしたデボラを、ピーターは慌てて止める。
「だっ、ダメです! また玉ねぎで目と鼻をやられて泣いてしまいますよ!」
「「!」」
デボラと側にいたローレン夫人とは、ほぼ同時に目と鼻を手で覆って後ずさりをした。
「……ピーターは玉ねぎを切っても平気なの?」
「ああ、これは慣れと言うか、泣かないコツがあります。最初の内は俺……僕もひどく泣いてたんですけど、今は平気ですよ」
「まあ! 凄いのねぇ」
デボラが目を輝かせ称賛するとピーターは再び真っ赤になり、次の玉ねぎを洗い出した。
「ど、どんどん切りますから、デボラ様もどんどんむいてくださいっ!」
「ええ。頑張るわ!」
こうして玉ねぎの処理を分担し、籠いっぱいの玉ねぎは全てデボラ達の手によってむかれ、薄いスライスに変化した。
「お、全部終わったのか」
料理長のヴィトがやってきた。スライスされた玉ねぎを眺めながらこぼした言葉には、ほんの少し驚きの表情が混ざっていたが、それは誰にも気づかれることなく流された。
「ええ、なんとか皮をむくことが出来ましたわ」
「へえ?」
ヴィトは今度はありありと面白そうな表情を声に出した。
「じゃあご令嬢、これがこの後どうなるか興味があるかい?」
「ええとても。……でも料理長、ひとつお願いが」
「なんだ」
デボラはヴィトをじっと見つめた。
「『ご令嬢』って呼び方はないんじゃないかしら」
「じゃあ『人質様』って呼ぶか」
料理長の軽口にデボラは怒るどころかにっこりと完璧な笑顔で応じる。
「そう言われた方がマシね。でも私にはデボラという名前がありますの。できればそちらを」
「ハ! あんた変わってるなぁ。前の奥様も相当変だったがそれ以上だ!」
「あら、そうなの?」
デボラは軽く首を傾げ、ヴィト、ピーター、ローレン夫人を見回した。ピーターとローレン夫人は微妙な笑顔で無言でいたが、ヴィトは普段の不愛想な姿とは違い快活に笑う。
「そうだよ。いくら貴族様の気まぐれったってこの量の玉ねぎの皮を全部むいちまうなんてなかなか無いぞ。デボラ様は見どころがある」
「まあ! じゃあ私が下働きとして働きたいと言ったら雇って頂けるかしら?」
「アハハハハ!! そりゃあいい!!」
デボラは半ば本気でヴィトに問うたのだが、勿論ヴィトは冗談だと受け止め、目尻に涙がにじむほど大笑いをした。その大きな体から発せられる笑い声は遠くまで響き、何事かと厨房に入ってきたマーナは夫が腹を抱える姿を見て驚いたくらいだ。
「……はぁ、こんなに笑ったのは久しぶりだ。さ、仕込みの続きをするぞ。デボラ様は危ないからそこで見ててくれ」
ヴィトは山ほど切られたオニオンスライスを大きな鍋に移し、炒め始めた。暫くすると一旦鍋を火から外し、デボラの方に傾けて中身を見せた。
「どうだ。さっきの玉ねぎがこれだけ小さくなるんだ」
玉ねぎは透き通り、水分が抜けて
「まあ! 本当だわ。どうして……」
「ここから更に炒め続けるともっと小さくなる」
「えっ!? そうなのですか」
目を輝かせ、面白そうに話を聞くデボラとその反応を楽しむヴィトを見たマーナは、息子が小さかった頃に夫の仕事に興味津々だったのを思い出してニヤニヤしながらその場を去った。
「ピーター、続きはお前が炒めろ」
「えっ、いいんですか?」
「わかってるな。玉ねぎを焦がすなよ」
「はっ、はい!!」
ピーターは作業を引き継いだ。大量の玉ねぎが焦げないよう常に混ぜ続け、火加減にも注意しなければならない根気のいる仕事だ。だが新しい仕事を任された事と、デボラがむいた玉ねぎを無駄にできない気持ちとが彼の面持ちを真剣にさせた。
玉ねぎはシュワワと小さな音を立てながら、香ばしい香りを辺りに漂わせ始める。デボラはその香りを堪能しながら料理を観察した。
◆
その晩。シスレー侯爵はデボラと晩餐を共にした。
前菜の後、出てきたのは飴色のオニオンスープだった。
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