第15話 玉ねぎの容赦ない攻撃
◆
「……」
デボラは無言で鏡を覗き込む。鏡の中にいる艶やかな赤毛の女性は、いつも通り人形のような完璧な顔かたちで、無表情を保っている。
と、その唇の端に指が添えられ、ぐいと上に引き上げられた。デボラは自身で口周りと頬の筋肉を動かし揉む。
(顔の筋肉が強張ってるのかしら……最近、人前で笑顔をキープできなくなっている気がするわ)
マムート王国にいた頃のデボラは、おはようからおやすみまで笑顔を絶やすことが無かった。楽しくなくても常に微笑んでいるのが淑女であると教えられていたのもあるが、王太子の婚約者として常に周りから見られていたのも大きい。
しかしここでは誰も「淑女たれ」「未来の王子妃にふさわしい態度を」と言外に求めてデボラにプレッシャーをかけたり、逆に彼女の足を引っ張ろうと完璧な態度の隙間を探ったりする者は誰もいない。それで日を重ねるうちに少しずつ、彼女から作り笑いが剥げ落ちて自然な顔に……つまり、目の色が変わる程度で基本は無表情な姿が表れているのだ。だが、デボラ本人はまだそれを自覚できていない。
――――自覚できていた方が互いに幸せだったかもしれない。
シスレー侯爵邸の面々からすれば、デボラの美しくも作りもののような無表情が突如完璧な作り笑いになるのを見せられるのだから、どうしたって警戒する。不気味の谷に突入しているようなものだ。
実は今も、ぐにぐにと顔を揉むデボラの後ろでローレン夫人が不審そうに見ているのだけれども、デボラはそれにも気づいていない。
だが、この日この後。デボラがボロボロと泣くことになるなど、彼女自身もローレン夫人も予想だにしなかった。
◆
「私は反対です! デボラ様に皮むきをさせるなど!」
厨房の入り口にて。ローレン夫人は珍しく語気を強めた。
「じゃあ帰んな。他に素人でもできる様な仕事はねえんだよ」
少しだけ困り顔のマーナの横で、しっしっとでも言うように手を振るヴィト。その言葉を聞いたデボラは頬に手を当て、首を軽く傾げてローレン夫人に問う。
「ミセスローレン、何故私は皮むきをしてはいけないのかしら?」
「当然です! そんな仕事、侯爵夫人たるデボラ様がする事ではありません!」
「だって私は形だけの白い結婚だし、お飾りの妻でしょう?」
デボラの返しにローレン夫人がぐっと口を引き結ぶ。
「せめて私が女主人としてこの屋敷を切り盛りできるなら良かったけれど……人質にそんな口出しはされたくないものね?」
「それは……」
「私、黙って座って皆のお世話になるのが心苦しいのよ。なんでもいいから役に立てるようになりたいの」
「で、ですが私でも玉ねぎをむいたことは無いんですよ! それは料理人か、本当の下働きがやることで……」
デボラの灰色の目がキラリと光るのをローレン夫人とマーナは確かに見た。
「まあ! ミセスローレンもやったことがない仕事なの? それは是非覚えたいわ!」
「いや、ですが! 玉ねぎには泥がついてますからその綺麗な指やお召し物が汚れるのでは」
「汚れたら洗えばいいのよ。そうね、もしもドレスが汚れたら、その洗い方も教えて貰わなくちゃね!」
ここぞとばかりにお得意の愛想笑いをたっぷりと見せつけて言うデボラに、ついにローレン夫人は手のひらを顔に当て、無言の白旗をあげた。これ以上余計な事を言ったら、デボラはあれもこれもやってみたいと言い出しそうだったからだ。
厨房の片隅で背もたれの無い椅子にデボラは座らされた。
とは言っても特別待遇だ。椅子の上にはクッションが敷かれ、足元から冷えが来ない様に足を毛布で巻かれている。さらにドレスが汚れない様、腕まくりをした上にメイドのエプロンを貸し出されて身に着けていた。
籠に積まれた玉ねぎが眼前にドンと置かれ、デボラは目をぱちぱちした。
「あとはコイツに訊け。俺は仕込みをせにゃならん」
「えっ!? 俺がですか!?」
「他に誰がいる。頼んだぞ」
見習いコックの青年、ピーターはその場を離れるヴィト、横で見守るローレン夫人、きょとんとしているデボラをオロオロと順ぐりに見て回り、暫く情けないほどに眉を下げていたが、仕方ないと覚悟を決めたようだ。
「えっと……奥様?」
「デボラでいいわ」
間近でデボラの美しい笑顔と良い香りの洗礼を浴びたピーターはかあっと赤くなり、今度はしどろもどろになった。
「デ、デボラ様! えええとですね! たっ玉ねぎをむきます!」
「どうすればいいの?」
「こここ、こうです!」
動揺はしていても、ほぼ毎日やっている動きは体に染みついている。ピーターは籠から玉ねぎをひとつ取り、あっという間に皮をむいて玉ねぎを別の籠に、皮はゴミ箱に入れた。
「えっ? 今何をしたの!?」
「こここ、こうです!」
もう一度やって見せる。瞬時に泥付きの茶色い皮の下から真っ白で丸い玉ねぎが現われた。だが一部分だけその白い肌が傷つき、少々痛んでいる箇所がある。
「あああっ、こ、こういう白くないのは腐っているので食べられません!! でもここだけ剥がせば食べられる場合もあります!」
ピーターはそう言って傷んだ箇所を剥がし、ちぎって捨てた。
「わかったわ。やってみるわね」
デボラは見よう見まねで玉ねぎの皮をむき始めた。だがなかなかピーターのように上手く行かない。皮が小さく崩れてしまい、玉ねぎに貼りついてしまったり、何度も剥がす手間がかかったりする。
彼女は玉ねぎに顔を近づけ、ゆっくりゆっくりと集中して皮をむいていった。と、一カ所痛みがあるのを見つける。
(あ、これも取るのよね)
デボラは玉ねぎに顔を近づけたまま、痛んだ箇所をちぎり取ろうとした。
「あっ!?」
それに気づいたピーターが声を出したがもう遅い。
「……!!」
玉ねぎの成分が彼女の目にもろに入ってしまったのだ。デボラは思わず目を押さえる。
「デボラ様! ダメです!」
だがその手にも、すでに玉ねぎの成分が付着している。事態はさらに悪化した。
(痛い……目が痛い!! 何? 毒!?)
デボラは溢れ出る涙がこぼれぬよう必死で堪えた。人前で泣くなど、元公爵令嬢の矜持が許さない。だが玉ねぎはそんな矜持など知った事かとでも云うように、容赦なくデボラの鼻と目を攻撃し続ける。ピーターとローレン夫人はデボラを囲み、オロオロするばかり。
「おー、やっぱりそうなったか」
様子を見にきたヴィトが言った。顔はいつもの仏頂面だが、目と声の奥には面白がっている色が漂う。
「玉ねぎは潰したり切ったりした時に目をやられるんだ。多分痛んだところをちぎったか何かしたんだろう」
「え……ぐすっ、そう、なので
「何も知らない貴族のご令嬢にはさぞかし辛い作業だろう? もう止めていいぞ」
「デボラ様、料理長の言う通り、おしまいにしましょう!」
「そそそ、そうですよもうやめましょう!」
「!!」
三人に言われたデボラは思わず手に持った玉ねぎをきゅっと握る。
「い、いい
デボラは涙をボロボロこぼす顔を三人に見せ、鼻声で主張した。元公爵令嬢の矜持よりも、仕事を投げ出したくないという彼女自身の意志が勝ったのである。
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