第17話 オニオンスープの波紋
スプーンをオニオンスープの表面に差し入れ、小さな波紋が生じたところでシスレー侯爵はふと視線に気が付き顔を上げる。真剣な顔でデボラがじっとこちらを見つめていたのだ。
「デボラ嬢、何か?」
「いいえ。スープの味は如何ですか?」
「?」
侯爵は不思議に思いながらもスープを口にした。長時間じっくりと炒めた玉ねぎの香ばしさと甘みを引き立てる様に、絶妙な塩加減が効いている。
「うん、美味いな」
彼はそう言うと、テーブルの向こうの光景に目を見張った。
今まで人形のような無表情か、逆に完璧なまでの愛想笑いしか見せた事が無かったデボラ。その彼女がほんの少しではあるが、頬を緩め、喜びの感情を乗せて微笑んだのだ。
それは、今まで固く閉じていた深紅の薔薇の蕾がゆっくりとほころぶかの様だった。
「良かったです。実は、私が少しお手伝いをしたのですわ」
「手伝い?」
「玉ねぎの皮をむいただけですけれど。でも大変でしたの。涙が出てしまって」
侯爵はローレン夫人とアシュレイに視線を送る。夫人は無表情で、アシュレイはほんの少し苦い顔でそれぞれ小さく頷いた。
その間にデボラもスープを飲む。彼女の顔に再び生気が宿った。
「ああ、美味しい……このスープを作るために、あれほど沢山の玉ねぎと手間がかかっているなんて今までは知りませんでしたわ!」
「ほう?」
デボラの言葉はシスレー侯爵の興味を引いた。料理長は腕は確かだが、職人気質で人当たりはよくない。その彼が仕切る厨房で、彼女は玉ねぎの皮むきをしただけではなくスープを作るのに手間がかかる事まで知ったという。
「料理長に作るところを見せて貰ったのか」
「ええ。あの方、私だけでなく見習いにも気を配ってましたわ」
デボラはまた薄く微笑んだ。瞳が悪戯っぽく煌めく。
「本当は優しい方ですのね。お顔は少々……怖いですけれど」
「!」
ゲイリー・シスレー侯爵は動揺し、一瞬だけ身を強張らせた。
「侯爵様?」
デボラが小さく首を傾げた瞬間、彼は己を取り戻す。
「……いや、なんでもない。そうか。デボラ嬢は厨房でも活躍しているんだな」
「活躍だなんてとんでもない。でも……本当に何かのお役に立てているなら嬉しいです。それも、侯爵様が私に自由を与えてくれたおかげですわ」
「自由?」
篭の鳥のデボラが言うには随分な皮肉だな、と侯爵は思う。しかし彼女があてこすりで言っているようには見えない。だからそれ以上は口にせず、目だけでデボラに返答を促した。デボラはきちんとその意を汲んだように返す。
「ええ。私はこのお屋敷から出られずとも、それ以外はすべて自由でしょう? 人質ですもの。もっと虐げられてもおかしくありませんのに」
「そんな真似、シスレー侯爵家の名に泥を塗るようなものだよ。君は丁重に扱わないと」
「それだけではありません。私が下働きでも何でもしたいと申し出た時、馬鹿な事と笑って却下しても良かった筈です。でも侯爵様はそれを私に許してくださいましたわ。私、とても感謝していますの」
デボラの蕾のような微笑みに、侯爵も温かく見える微笑みを返す。晩餐は和やかに終わった――――――
筈だった。
部屋に戻ったデボラは、また無表情になった。独り、先程の晩餐を思い出す。
(この間のお野菜の話をした時もそうだったけれど……)
侯爵とは大した会話はしていない。それなのにごく稀に彼は彼女の何気ない言葉に反応する。そして、その一瞬だけシスレー侯爵の本性が垣間見えた気がした。そう。とても紳士的で優しい、完璧と言える立派な男の仮面がひび割れて、中の本性が。
長い間完璧な公爵令嬢の仮面をかぶり続けてきたデボラだからこそ、わかるのだ。でもその本性は恐ろしいものではないと思えた。むしろ。
(悲しい……とても大きい悲しみが、あの人の中にはあるのかもしれない)
デボラは小さなため息をこぼした。
(こんなに良くして頂いているんだもの。せめてもの恩返しで、悲しみを和らげて差し上げる何かができたらいいのに……)
その感情は、単なる恩返しから来たものだけだったろうか?
◆◇◆
「デボラ嬢はどうだ、アシュレイ」
執務室に控えていたにこやかな執事は、主人に訊かれてにこやかさを維持したまま、目の色だけを険があるそれに変えた。
「どう、とは」
「時折彼女の様子を窺っていたろう」
「は……」
いつもはっきりと答える筈の執事も言葉に詰まった。侯爵の目が面白そうに光る。
「流石に君の負けだと思うが?」
「……わかりました。その件に関してだけは私の負けです。デボラ様は公爵令嬢本人でしょう」
彼は白い手袋を嵌めた両手を上に挙げる。今までアシュレイだけは公爵令嬢が偽者ではないかという意見を捨てきれずにいた。
「あの方はいくら何でも変わり者すぎますよ。庶民や下位貴族の令嬢を連れてきて偽者に仕立てたって、あんな風にはならないでしょう」
侯爵は軽く笑う。
「そうだな。やはりあの見た目や姿勢の美しさは本物だろう……」
けれども。デボラの「下働きをしたい」という発言や行動は元王太子の婚約者だった地位にそぐわない。しかも実際に働かせた際に側にいた使用人によれば飲み込みはまあまあ早いものの、最初の内は全く覚束ない手つきだったそうだ。彼女が偽者で庶民や下位貴族だったならもっとテキパキ動けるだろう。
……いや、そもそも偽者なら「下働きをしたい」などと素っ頓狂な事を言わなければいいのだ。疑ってくれと言うようなものではないか。彼女が本物でも偽者でも、何もかもが矛盾している。
ただひとつ、可能性があるならば。
「……アシュレイ、今日はもういい」
「はい。失礼致します」
執事が執務室を出ていくと、侯爵は傍らに用意してあったブランデーをグラスに注いだ。ぐいと一気に酒をあおると深い息を吐く。
「は……」
彼は目を閉じる。目蓋の裏には彼の最愛の妻の、若き日の姿が甦った。
『この野菜、採れたてみたいに新鮮ですね!……え? お庭で作ってる野菜なんですか?』
『料理長ってお顔は怖いけど、ホントは優しい人なんですね!』
『侯爵夫人だからって何もしないで座ってるだなんて
「マギー……何故」
侯爵の手元からピシリと、小さいが鋭い音が走る。彼が強く握りしめたグラスにヒビが入ったのだ。
「何故、あんな事を……!!」
彼の妻は亡くなる前に遺言を手紙で残していた。
『あなた、お願い。誰も恨まないで。憎まないで。こうなったのは私のせいよ。ごめんなさい』
彼女の遺言を守るため、シスレー侯爵はデボラに対して温かく接した。使用人達がデボラに失礼な態度をとる事を許さなかった。
けれど。デボラが何気なく口にした言葉が前の妻、マグダラを思い出させる度、彼の心は嵐のように荒れ狂っていたのだ。
この国でデボラが少しでも快適に過ごせる様にしてあげたいとマグダラなら考えた筈だ……という気持ちと、憎しみを全てデボラにぶつけて彼女を引き裂いてしまいたい! と考える気持ちが渦を巻いて混ざりあい、どす黒い色を成して彼の中で踊る。ゲイリー・シスレーは嗚咽を漏らした。
「マギー……俺はどうしたらいい……俺を救ってくれ、マギー……」
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