第18話 侯爵の変化

 ◆



 翌朝。

 窓辺から射し込む朝焼けの鋭い陽の光にシスレー侯爵は目覚める。いつの間にか執務室で寝てしまっていたことに気付いた。

 このような無様な姿を使用人たちに見せてはならないと慌てて起き、自分の寝室に戻る。鏡に映る自分の酷い顔に思わず苦笑いをし、洗面器に水を張り顔を洗った。着替えて人心地がついた頃には、先程までの朝焼けはもう消えて青い空が窓から見える。彼は窓の外を眺めて思った。


(昨夜の俺は……私は、どうかしていたな)


 昨夜、アシュレイと話をした時にシスレー侯爵の中に一つの可能性が思い当たった。それは最初小さな小さな黒いシミのような点だったのに、瞬く間に大きく広がり彼の心を黒く浸食した。


 デボラの矛盾した行動、そして時にマグダラの言葉と似たものを発する事、彼女がマムート王国から送り込まれたスパイではないかという疑い。それら全てをまとめて繋げると、デボラがシスレー侯爵を籠絡するために亡くなった妻の真似をしているのではないかという考えに囚われてしまったのだ。一度考え始めればその疑いからは逃げられず、そして疑いが敵国への憎しみを更に加速させる。万が一あの場にデボラが顔を出しでもすれば、彼女に酷いことをしてしまったかもしれない。


(デボラ嬢がマギーの真似をしているなど、あり得ないのに)


 一晩経ってから落ち着いて考えると、それは随分と馬鹿馬鹿しい考えだったと彼自身も思い直した。


 マグダラの言葉はいずれも彼女が侯爵家に来てすぐに発したもの……つまり10年近く前だ。あの頃の彼女の発言を聞いていたのはローレン夫人とマーナぐらいで、他の使用人は元執事長のスワロウを始め、殆どの者が老齢や結婚などで辞めている。


 しかも発言の内容も何気ないものばかり。シスレー侯爵も妻を亡くしてから、彼女が生きていた頃の姿を何度も反芻していたから思い出したのであって、使用人たちも覚えていたかは怪しいぐらいだ。

 マグダラの言葉を元使用人たちから聞き出してデボラが真似る作戦だったならば、もっと印象に残るようなエピソードや近年の言葉を持ってくるのではないか。

 それに、もしも本当に、マムートの情報屋が昔の何気ない言葉さえも調べる事ができる程の凄腕ならば。フォルクスが近年こっそりと守りを固めていた事を知らずに戦争を仕掛けた事実とは辻褄があわなくなる。


 そもそも平凡なマグダラと国一番の美女であるデボラではあまりにも違う。シスレー侯爵を籠絡するのが目的ならもっとマグダラの容姿に似た人物を送り込む筈だ。二人の言葉が似ていたのは偶然だったと考える方が自然である。


 侯爵は水差しからコップに水を注ぎ、一気に飲み下す。冷たい水が身体に残った酒とどす黒い気持ちを洗い流してくれた気がした。



 ◆



 朝食の席でデボラはまたも新しい提案を持ち出した。


「侯爵様、楽器を弾くことをお許しいただけますか?」

「楽器を?」


 デボラは相も変わらず完璧な淑女の微笑みを湛えて言う。


「ええ、このお屋敷にはピアノがございますよね。私、少々ですが楽器をたしなみますの」

「それは構わないが。どうせ誰も使っていないものだ」

「ありがとうございます」


 一応最低限の手入れはしていたが、屋敷のピアノは滅多に弾かれることがなく置かれていた。マグダラ前の妻は楽器を弾いたりダンスをしたりという一般的な貴族女性の趣味娯楽よりも外に出て畑の様子を見、土をいじり、使用人や領民と話す方を好んでいたし、得意分野もそちらだったのだ。


 その日の午後。執務室にいたシスレー侯爵の耳にここちよい音が聴こえて来た。

 侯爵が音楽室に向かうと、うっとりして音楽に聞き入るシェリーとマーナ、無表情で様子を見守るローレン夫人に囲まれ、なめらかにピアノを弾くデボラの姿が目に入った。デボラは公爵に気づき、手を止める。それに気づいた使用人たちもハッとして直った。


「侯爵様……」

「いや、いい、気にしないで続けてくれ」


 デボラは彼の目を真っ直ぐに見返し頷いた。そしてガラス玉のような灰色の瞳に再び光が灯る。侯爵は彼女が微笑んでいるように思えたが、すぐにデボラはピアノに向き合い、別の曲を弾き始めた。

 それは優しい、温かい曲だった。昨夜黒いものに侵されて傷ついた彼の心を癒すような調べだった。


(やはりデボラ嬢はマギーとは違う)


 ピアノを弾くデボラを見つめながらこう考えた時、彼の胸の中に少しだけ心の変化が生まれた。それは負い目だった。


 自分の心の弱さからデボラを悪女だと、裏があるのだと決めつけたくなったのは、もし本当にそうなら楽だったから。彼女を憎むことが出来るから。それは彼自身が使用人たちに「してはいけない事」だと言っていたのに。

 この屋敷の主人である自分がもしもそんな態度を取れば使用人たちもおのずと真似をする。デボラはひとりぼっちでやってきたこの国で皆に虐げられてしまうだろう。


 実際にはゲイリー・シスレーはデボラに冷たい態度を取ったり虐げたりしたわけではない。だがそう考えただけで酷く負い目を感じた。愛する前妻の遺言に反した事が余計にそう思わせたのだ。


 彼はマグダラとの約束を守るためにも、もう少しデボラに歩み寄ろうと思った。

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