深紅の薔薇の蕾が少しずつ開いていく
第19話 デボラの変化に皆が戸惑う
◆
翌日もデボラはピアノを弾いた。彼女の腕前はなかなかのもので、使用人たちは皆、その音色に聞き惚れた。普段デボラを訝しく見ているアシュレイでさえも。彼曰く「音楽に
それに侯爵も。デボラがピアノを弾いていると音楽室に彼が顔を出した。するとデボラはまた優しい曲に切り替える。
二人が言葉を交わすことは無いが、侯爵はゆったりと座り、音楽やお茶を楽しみながらデボラを優しい目で見る。デボラはごくたまに侯爵をちらりと見返した。その場に居たマーナは彼女の瞳を見ておや、と思った。
そこには期待が籠っている。かつて、夫が新作の料理の試食をマーナに出してきて「正直な意見を言え」と言いながらも、「美味しい」という言葉を期待している姿にとても似ている。マーナは不思議に思った。デボラは何を期待しているのだろう。
曲が終わるとその場にいた皆が拍手をした。
「いや、素晴らしい。デボラ嬢はピアノの名手だな」
「そんな、大したことはありませんわ」
侯爵に褒められても、謙遜をするデボラはいつもの淑女の微笑みを崩さない。マーナは益々不思議に思う。デボラは褒められたかったのではないのか? それとももっと感激の喝采を浴びないと満足できないのかも? と。
「私、侯爵様や皆様のお役に少しでも立ちたいのですけれど、こんな事しか出来なくて」
「こんな事ではないよ。この屋敷では君にしか出来ない事だ……そうだ」
シスレー侯爵は微笑んだ。
「デボラ嬢さえ嫌でなければ、これからも時々ピアノを弾いてくれないか? 例えば週に一度、決まった曜日に」
「え……」
デボラは目を丸くする。それは予想外の依頼だった。デボラが望んでいたものは、侯爵が秘めている悲しみを少しでも晴らす方法だったのだ。何か自分に出来ることはないかと考え、せめて音楽で慰められれば、とピアノを弾いたのだが侯爵はこれからも定期的に弾いてくれと言う。まさに望外の喜びが彼女の胸にじわりと広がる。デボラは前のめりで答えた。
「……ええ! 喜んで!!」
その瞬間、マーナはああ、これかと思った。マーナ以外の皆もそこまで考えてはいなくとも、デボラの変化に気づいたろう。シェリーも、アシュレイも、ローレン夫人も、そして侯爵も。皆目を見開き、一瞬時が止まったかのように固まる。
それは、例えるなら深紅の薔薇が芳しい薫りを伴って、ぶわっと見事に花開く瞬間だった。
それまでの作り笑いから一転、彼女の頬に赤みが差し、目は喜びに輝き赤く艶やかな唇はほころぶ。声は子供のように弾んでいた。そこに居たのは人形のような完璧な貴族令嬢ではない。人間の魂を持った、とても美しい、まだ若いひとりの女性だった。
「こんな演奏でよろしければ、週に一度と言わず、毎日でも!」
「……毎日か。それは嬉しいな。でも君の負担にならないかな?」
「これくらい、お安い御用ですわ」
「そうか。じゃあ特に用事の無い日は、午後のお茶の時間の前に弾いて貰おう。それなら多くの使用人たちが休憩時間に君の音楽で心を和ませることが出来るからね」
「はい!」
デボラは喜びを声にも乗せ、ウキウキと返事をする。周りの人間が彼女の変化に驚いている事にも気づかずに。
皆が音楽室を去ろうと言う時、マーナはローレン夫人にこっそりと声をかけた。二人はデボラをシェリーに任せ、音楽室に残る。
「一体なんですか?」
「ローレンさん、デボラ様の事なんですけど……デボラ様はこのお屋敷の中で“役割”が欲しかったんじゃ無いでしょうか?」
「え?」
「ローレンさんもさっき見ましたよね? デボラ様のあの顔。あんなの初めてですよ」
「ええ……そうですね」
ローレン夫人もこれには驚いていた。鮮やかな、華やかな彼女の笑顔。満面の笑顔では無い。それでも今までの無表情や作り笑いとのギャップや、彼女の美貌もあってなかなかの破壊力だった。
「ピアノを褒められた時はいつものデボラ様だったのに、弾く役を与えられた途端にあの変化ですよ。だから“役割”が欲しかったんじゃないかって……」
「ああ、確かに」
ローレン夫人にも合点がいった。デボラは急にメイドの真似をしてみたり、料理の下働きに精を出したりと貴族令嬢に似つかわしくない事ばかりやりたがる癖に、それらに慣れているどころか全くのズブの素人だった。それに彼女はローレン夫人にこうも言っていた。
『何かお役に立てることはないかしら』
『せめて私が女主人としてこの屋敷を切り盛りできるなら良かったけれど……』
『私、黙って座って皆のお世話になるのが心苦しいのよ。なんでもいいから役に立てるようになりたいの』
デボラはずっとそう言っていたではないか。自分たちがその言葉を素直に受け止めず、ただ不思議だとか、裏があるのかと思っていただけだ。勿論、不思議ではある。元公爵令嬢で現侯爵夫人が使用人にただ傅かれるだけの存在である事に「心苦しい」など言うのは珍しい。
彼女らの前の女主人、つまり亡くなったマグダラは確かに「珍しい」方だった。「侯爵夫人なんて性に合わないわ!」と笑い、使用人に気さくに話しかける。「農業がシスレー領の主な収入源でしょう。じゃあ私も働かないと!」と泥まみれで庭師や領民と一緒に畑を耕すことを厭わない。だがそれは彼女が田舎の貧乏伯爵家の出身だったからで、嫁入り前からの慣習をシスレー侯爵家に持ち込んだだけに過ぎない。その態度が貴族女性としては異質な事ぐらい、前シスレー侯爵とその夫人の時代から仕えていたローレン夫人とマーナならわかる。
だがデボラはマグダラとも違う。その美しさは確かに唯一無二の珍しさと言えるほどだが、立ち居振る舞い等は「珍しくない」方の……いや、もう皆のお手本となるような貴族女性のそれだ。それなのにその口から出るのは「珍しい」事ばかり。不思議でしょうがない。だが何よりも不思議なのは。
「でも、それはおかしいですね」
「え?」
自分の考えに自信があり、若干ドヤ顔を見せていたマーナはこの後、新たな疑問に益々頭を悩ますことになる。ローレン夫人がこう言ったからだ。
「“役割”が欲しいなら“人質”で充分じゃありませんか。それがなによりの価値でしょうに」
「あ!」
マーナは惜しいところまで行っていた。だがデボラに実は人質の価値が無い等と想像できるわけもない。従ってこの疑問はもう彼女の理解を完全に超えていて、マーナは知恵熱が出そうになり、考えるのを諦めてしまった。
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