第7話 せめて何かお役に立てる事がないかしら

 ◆



 デボラがシスレー侯爵の屋敷に来て五日目。


(ああ、終わってしまうわ……)


 最後の一針、ひとすくい。それで終わってしまう。だがそれを丁寧にすることはあっても、わざとゆっくり時間を稼ぐ等という考えはデボラの頭にない。時間は有限、いつだって迅速に、完璧に……と、彼女は幼い頃より常に教育されてきたからだ。


 だからさっさと最後のひとすくいを刺し、裏で糸を留めたデボラはそれまで没頭していた刺繍をローレン夫人に手渡した。

 夫人が鋏で残りの糸を切る。ご丁寧にもデボラがという配慮から鋏を使わせて貰えないのだ。

 そんな小さな鋏で何が出来るものか、とデボラは呆れたが、まあ確かに握って胸にでも突き立てれば自らの命を脅かすことは出来るかもしれない。

 そもそもその気があれば窓から飛び降りた方が確実だが。


 夫人が出来上がった刺繡の布を広げて見せる。黄色いバラの枝に二羽の青い鳥がとまっている図案だ。暇にあかせて周りを月桂樹の葉でぐるりと囲みまでしたが、とうとう刺すところが無くなり完成してしまった。


(さて、どうしましょう……)


 デボラは暇をもてあましていた。無理もない。今までは王太子妃教育に加え、アーロン王子の公務に連れだっていたのだ。

 公爵邸で約三週間の間自室からの外出禁止令が出ていた時ですら、歴史書や各領地についての本や資料を読み解き、ダンスの練習をし、楽器を弾いていた。それらは全て楽しみではなく自己研鑽の為であったデボラにとって数日間なにもしない、しなくて良いというのは記憶に無いほど久方ぶりであった。


「あの、ミセスローレン」

「なんでございましょう」

「なにか私にできることはないかしら?」

「なにか、とは?」


 デボラは出来るだけにこやかに言ってみたのだが、それがかえってローレン夫人の猜疑心を刺激したのか、彼女の声にうっすらと訝しげな色が混じった。


「侯爵様も、貴女がたも。充分すぎるくらい私に良くしてくださるわ。これじゃあ人質ではなくて食客よ。何か私に、お役に立てる事がないかしら」


 事実、デボラの言うとおりなのだ。

 シスレー侯爵は自由に出歩けないと言ったが、直前のマウジー公爵邸実家での扱いよりも自由なくらいだ。ローレン夫人の付き添いさえあれば屋敷の中はもとより、庭の散歩さえも許可されている。

 流石に屋敷に出入りする商人や使いの者に声をかけるのは許されていないが、屋敷の中の人間に話しかける事は特に禁じられていなかった。


 デボラが使用人達に愛想よく声をかけると戸惑ったり冷たかったりとあまり歓迎はされていないものの、大方の人は言葉を返してくれた。身の回りの事も食事も申し分なく世話をしてくれる。

 デボラは自分に人質の価値が無いことを伏せているのもあり、やや後ろめたい気持ちを抱いていた。


 かといって、本当の事を話すわけにもいかない。

 人質の価値など無いと知れれば、その後はどうなるか。真実を知ったフォルクス国民の中には逆上し彼女を殺す者もいるかもしれない。そうなればマムート側は人質を殺されたと大騒ぎし、再度戦争を仕掛けるか、あるいは戦後賠償金の支払いを拒むだろう。


 デボラが話した「真実」は、彼女が人質生活で気を病み、デタラメを言ったのだと突っぱねるくらいマムートの……いや、デボラの父と兄はやりかねない。

 デボラは自らの身を守るためでもあるが、それ以上に二国間の和平を維持するためにこの話は漏らせないと思っていた。


「まさか、私どもメイドの真似事でもなさる気で?」

「まあ!」


 ローレン夫人の言葉に、デボラは頬に手を当てて驚きつつも、即座にこう考えた。


(良いかもしれないわ。この人質扱い生活が終わった後……もし生きていればだけど、公爵家に帰れない場合は手に職が無いと困るもの)


「私、何も知らないから一から教えて頂くことになってしまうと思うわ。それでもよければ是非に」


 にっこりと妖精の女王かの様な美しさで微笑んだデボラに、ローレン夫人は僅かに……本当にごく僅かに、目が大きくなり唇を横に引き結んだ。

 恐らくぎょっとしたのだろう。


「……冗談でございますよ。デボラ様は何もご心配なさることはございません」

「あら、ミセスローレンは冗談を仰るタイプなのね」


 またローレン夫人の能面のような顔がほんの僅かに崩れたが、すぐに元通りになりこう言った。


「では本は如何でしょう」

「まあ、良いの?」

「ええ、後程幾つかお届け致します」

「ありがとう。ミセスローレン」


 今は侯爵邸では役立たずでも、本を読み知識を蓄えることで将来何かの役に立てるかもしれないとデボラは希望の光を心に灯した。

 ……が。メイド長から渡された三冊の本はデボラが今まで読んでいたような物とは違い、全て純粋な娯楽小説であった。


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