第54話 逃げ出したくなるかもしれないわね
「ここにいるデボラに刺繍を教わりたまえ。週に一度か二度、曜日と時間を決めてこの屋敷に来て貰う。必要な道具や材料はこちらで用意しよう」
「ちょっ、ちょっと待ってくだせえ!」
父子は揃って目を白黒させた。母親は両手で頬を包み同様に驚いていたが、やがて理解したのか恐る恐る口を開く。
「……領主様、この子に刺繍をやらせろ、と? トムは針仕事なんてやったことがありません!」
「ああ、別にこの少年に限らず、家族が代理で来ても、なんなら一緒に来て二人でも三人でも刺繍の訓練をしてもらって構わない。だが、大人たちは皆、それぞれ毎日やるべき仕事があるだろう?」
シスレー侯爵の言葉は図星だったようで、三人は一瞬身を固くしたあと、気まずそうに互いの顔を見た。父親が眉尻を下げて言う。
「……確かにうちの中で
「では、彼がやるということでいいな?」
「けれどこいつは息子です。男に刺繍をやらせても上手くいきっこありませんよ!」
「いや、それは試してみないとわからないさ。やらせてみてダメなら、彼の姉に役目を変わって貰ってもいい」
「どうしてそこまで刺繍をやらせたいんですか……」
戸惑う父親に、シスレー侯爵は笑って見せた。
「理由はいくつかある。ここにいるデボラの刺繍の腕は一流だ。彼女に教われば自分達でも好きなものが作れるようになるだろう? ハンカチでも帽子の飾りでも」
「え、それは、そうですが……」
「二つ目の理由だ。実は昨日手に入れたばかりの情報なんだがな、今王都にいる高位貴族の間では刺繍入りのドレスが流行り始めているらしい」
「へ? それが」
なんの関係があるのか? と彼らの顔に書いてある。貴族のドレスに何が流行しようと、裕福でない平民には全く関係の無いことだからだ。……普通なら。
「王族や高位貴族の流行はやがて下位貴族や彼らを相手にする裕福な商人へも影響を及ぼし、商人から更に町民などへ大きな流行に繋がることも多い」
「はあ」
主な仕事が農作業である両親は、流行やら商人やら、自分達にはとんと縁のない話を聞かされ続け、上手く飲み込めていない。だが、続く侯爵の言葉で漸く理解する。
「……つまり、これからは出来のいい刺繍が入った布地は良く売れるようになるはずだ。今の内に刺繍の腕を身につけておけば、その流行に乗れるだろう」
「!!」
「あ……!」
子供が何人もおり、その子供も含め家族皆で懸命に働いていても貧しさが解消できていないトム達家族。その彼らに、侯爵とデボラは農業以外の副業でお金を稼ぐチャンスを提示していたのだ。
「だから、彼以外が刺繍の腕を身につけてもいいし、君たち家族の女性陣が皆でデボラに教わってもいい。だが、デボラにはもうひとつ、別の考えがあるらしくてね」
そこまで言うと、シスレー侯爵はデボラに軽くウインクをして見せた。デボラは急に話のバトンを戻されたことと、侯爵の茶目っ気ある表情に驚いてもじもじする。その頬は、良く見ないとわからないがうっすらと桃色に染まっていた。彼女は遠慮がちに話を切り出す。
「……あの、確かに男性で刺繍をする人はいませんわ。けれども針仕事を生業とする男性はおりますの」
「え?」
やはりトム達家族は、男性で針仕事をする人間には心当たりがない。だが視線をうろつかせた彼らが、揃ってデボラの横後方に目を止める。デボラもそれにつられて同じ方角を見ると、そこにはニヤつく口許を必死に抑えようとしながら(得意げな表情なので抑えきれていないわけなのだが)、手を小さく挙げたシェリーの姿があった。
「あの、私が答えてもいいですか?」
「勿論よ。シェリー、貴女はわかる?」
「ハイッ! それは靴職人です!」
シェリーは鼻高々で答えた。
「うちの実家の近所に靴職人が住んでまして、小さい頃に工房の中を見せて貰ったことがあるんです!
「ええ、そうね」
デボラに肯定されてシェリーはフフンと益々鼻を高くする。だが、実はそれは正解ではなかった。
「……でも、他にもあるのよ。
「仕立て屋!」
「……そんな、私らのような学のない人間にはとても無理です!」
母親の反論……反論というよりも、恐れ多いといった言葉に、デボラは薄く微笑んで見せた。
「そうでしょうか。彼はまだ幼いでしょう。今から読み書き計算と針仕事を覚えれば、もう少し大きくなった時に仕立て屋の工房に見習いとして入れる可能性は大いにあるのでは?」
「!」
既に成人に近く、仕事が決まっている彼の兄や姉が今から訓練を受けても副業程度しか望めないが、トムには未来の可能性がある。
「それに、彼はこの年でお肉屋の使いとしては立派に仕事をしていると聞きましたわ。ならば他の仕事も果たせるかもしれません」
「……」
突拍子もない……だが決して無茶とは言えぬ、妙な説得力のある提案に、遂に両親は言葉を失った。
デボラは改めてトムに目を移す。
「勿論、このまま貴方が将来はお肉屋の配達員の仕事に就きたいと思っているのなら、この話は無かったことにして下さいな」
「……」
少年は驚きの連続でずっと目を見張っていた。だが、その目をパチパチと何度も瞬かせていく。やがてその速度がゆっくりと変わると共に、彼の顔は段々と下を向いていき、両手はズボンをぐっと握った。
両親も、侯爵やデボラ達も彼の様子をじっと見守る。
「……ごめんなさい」
「いいのよ、やっぱり変な提案だったわ……」
「違うんです! ごめんなさい!!」
再び、デボラの言葉は遮られた。
「俺……意地悪を言ったのに……っ。ありがとう……」
彼は震えながらそれだけ言った。顔は真っ赤で、目からは今にも涙がこぼれそうだ。母親が彼をぎゅっと抱きしめながら、やはり目を潤ませてデボラに言う。
「……奥様、本当にありがたい話です。けれどやっぱりこの子を甘やかす事にはなりませんでしょうか」
「まあ、ふふっ」
デボラから小さく笑みが漏れた。
「甘やかすだなんて……皆様誤解されてるみたいですわね」
ローレン夫人の眉がピクリと上がる。その時のデボラの表情がいつもと違ったからだ。
正確には今朝、シェリーとアンを脅かした時と同じ、少し悪戯っぽい顔をしている。
「きっと私から刺繍を習ったら、そんな事を思わないんじゃないかしら」
「?」
「だって私、今まで祖国では何を学ぶ際にもとっても厳しい教師をつけられてきたんですもの。しかも全てが出来て当たり前、出来なければ酷く叱責されてましたわ」
これには全員が驚いて声を出せなかった。
中でもシスレー邸の皆は、驚きつつも心の内で妙に納得した。ピアノや刺繍の腕だけでなく、急に現れたリオルド王子殿下への対応も一流だったこと。そして逆に貴族令嬢に似つかわしくない下働きをやった時でも、上手く出来ないとしょんぼりしていたのはこういう訳だったのか、と。
「だから」
デボラはにっこりと微笑んだ。
「私が教える側になったら、とっても厳しい教師になると思うの。甘やかすどころか、そちらが逃げ出したくなるかもしれないわね?」
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