第49話 ティーカップの表と裏
◆
「……」
侯爵から全てを聞いたデボラは暫くの間、何も言えなかった。彼女にとってマグダラは皆を愛し、皆から愛される幸せな女性に見えていたのだ。
それが、愛ゆえに残酷な最期を迎えたとは想像もしていなかった。
「これが彼女の遺言だ」
侯爵がローテーブルの上に置いたのは、粗末な藁混じりの紙に木炭で書かれた一枚の手紙。疫病に冒された辺境の村ではこの紙でも精一杯の用意だったとうかがえる。
『あなた、お願い。誰も恨まないで。憎まないで。こうなったのは私のせいよ。ごめんなさい』
ところどころ震え、乱れた文字には続きがあった。
『愛しているわ。あなたを。皆を。だからこそ私はシスレーの家からいなくなるべきだったの。だけどあなたが離縁はしないと言ってくれた時に、それを受け入れてしまったのは私の弱さだった。だからこんなことになってしまったのだと今、これを書いている時に思い知らされたわ』
手紙は所々に丸い跡があった。きっと涙が落ちたのだとデボラは思う。その涙はマグダラのものだろうか。侯爵のものだろうか。あるいは両方かもしれない。
『私がいなくなったあと、あなたが再婚して幸せに暮らしてほしいと望んでいるわ。今までありがとう。愛してる。 マグダラ』
手紙に最後まで目を通すと、デボラはそっと侯爵の方へそれを押し返した。ほんの少しでも皺や折り目を付けてはいけないと、出来るだけ触れないように気を付けて。この手紙はそれだけ敬意を持って扱うべきものだという気がしたのだ。
「私……何も存じませんでしたわ」
「……無理もない。マギーの正確な死因を知る者はそれほど多くない。うちの領民ですら北の村の関係者以外は、戦で亡くなったのだと思っている者も多い……それに」
ゲイリー・シスレーは今までシスレー侯爵として被っていた紳士的な仮面を既に脱いでいる。
「この屋敷の中の者でも、死因は知っていても俺とコーネルが妻を追い詰めた結果だとは知らない人間さえ居る」
ゲイリーの顔には憎しみと葛藤が表れていた。デボラは何となくその心の内ががわかるような気がした。彼は自分自身とコーネル・シュプリムの二人を憎んでいる。けれど今まで侯爵という立場から、どちらも切り捨てることが出来なかったのだ。
けれどもやはり侯爵という立場から、自分の不名誉をぺらぺらと話す事は難しい。マグダラの失踪騒ぎの後に屋敷に勤めることになった使用人が何も知らなくとも無理はない。
「……」
暫く、談話室に静寂が満ちた。冷えた空気がじわりと落ちてくる中で遠慮気味に口を開いたのはデボラだった。
「……でも、あの、こんな事を言うと……差し出がましい様ですけれど……」
彼女はちらりとゲイリーを見る。彼は無言だった。初めて出会った時のように優しく「なんだい?」とは言ってくれない。そんな余裕は無いのだろう。デボラは一旦口を閉じたが思いきって続けた。
「奥様はそれでも幸せだったのだと思います」
「……!」
ゲイリーの目が丸くなり、美しいスカイブルーの瞳がはっきりと見えた。デボラの横に控えていたローレン夫人も同じように驚いている。
「私は、使用人がこんなに温かく幸せそうに働いている屋敷を見たことがありません。侯爵様と奥様が幸せで、互いを愛されていたから出来上がった雰囲気なのだと思いますわ。それに」
デボラは眼を伏せ、ローテーブルの手紙をもう一度見つめる。
「この手紙、ご自身の弱さについて悔やんではいますけれど、愚痴や不満はひとつもありませんでしょう? 死の間際なら本音を書くものだと思いますわ」
たった一枚の手紙は、文章や筆跡の乱れはあっても書き損じはほぼない。北の農村の隔離された部屋で熱に浮かされ、死の訪れを感じながら何枚も紙を無駄にして書き直し、綺麗事を綴るだろうか。
否、これこそがマグダラの本心。彼女はこれ一枚きりしか書かなかったのだろうとデボラは思う。
「奥様は、侯爵様とこの屋敷の皆を本当に愛し、そして幸せでいらしたのだと以前から想像がついていました。今日侯爵様からお話を聞いてみて、想像と違うところもありましたけれど……でも、やはり奥様は幸せでいらしたのだと」
「そんな訳……」
ゲイリーの言葉にはデボラの説を否定する色があった。が、その瞳には言葉とは裏腹で彼女の言葉にすがるような表情がある。それを見たデボラは、遠慮せずに言った方が良いと確信し、言葉を続ける。
「幸せで、皆を愛していたからこそ侯爵夫人という役割を過剰に務めようとしたのでしょう? 本当に追い詰められていたのならば、もう一度逃げることも出来た筈です」
「いや、でも!」
堪えきれずと言った雰囲気でアシュレイが割り込む。
「奥様は私のせいでご実家に帰れなかったのです!」
デボラは灰色の瞳を瞬かせ僅かに首を傾げたが、すぐにアシュレイへ言葉を返す。
「それはどういうご事情なのかはわかりませんが、逃げ出す先がご実家とは限りませんもの」
事実、デボラは実家に捨てられたのだからもう帰れない身なのだ。
「一度逃げるのに失敗しているのですから、本当に逃げたいのならば次は上手くやろうと考えるでしょう。奥様は慈善事業にも手を出していらしたのですから、孤児院や教会にもご縁があったでしょうし、一時的に身を寄せる場はなんとでもなりますわ」
その場の全員が驚愕の眼差しでデボラを見る。彼女はすらすらと言葉を紡ぎだした。
「慈善事業と言えば……奥様は事業のために侯爵家のお金をある程度は動かされていらしたのでは? ならば逃走資金もそこから少しは捻出できなくも無いですわね。他にも宝飾品やドレスを換金しても良いですし、贅沢を望まなければ女性一人が名前を変えて暮らしていくことも出来るのではないでしょうか……」
そこまで言ってからデボラは自分が喋りすぎたと気がついた。ゲイリーが、ローレン夫人が、アシュレイも呆気にとられて彼女を見ている。
「あ、あの」
デボラは顔を赤らめる。自分がもしも人質の身から解放されたとて、マウジー公爵家に戻れるかは極めて怪しい。そうなったらかつて慰問をしていた教会に身を寄せるか、持ち物を換金して平民になろうかと想像したこともあったのだ。
だが、公爵令嬢が逃亡先や資金について考え、口にすることはどう見ても異常である。
この異常さをどう取り繕うかデボラは素早く考えを巡らしたが、上手い言い訳を思いつけない。やむを得ず、やや強引に話を纏めることにした。
「……ですから! 奥様は追い詰められていたとは思えません。お子様の事は確かに負い目ではあったでしょうけれど、それよりもこの屋敷に……侯爵様や皆と一緒に居たいからこそ、侯爵夫人として奔走していたのだと思いますわ」
「……」
デボラの言葉に目を丸くしていた三人は、ゆっくりとその目を伏せて考え込んだ。おそらく記憶の中のマグダラの表情を思い出しているのだ。彼女が追い詰められていたのではなく、本当に幸せだったのかと。
デボラは部外者で、マグダラ本人と会ったことはない。だから全く見当外れの事を言っている可能性が高い。だが逆に部外者だからこそ、彼らが見えなかった真実を言い当てている可能性もあるのだ。
彼女は喋りすぎた喉を潤すためにハーブティーを口にした。ティーカップには美しい薔薇の模様があしらわれている。この裏側にどんな模様があるのかは、カップをわざわざぐるりと回さない限りは見ることが出来ない。
マグダラのことも同じ。ゲイリーたちはそれぞれ自分のせいでマグダラを傷つけ追い詰めたと思い、それ以上彼女の心に深入りしようとしなかったのではないか。
もっと話し合えば、彼女はただ傷ついているだけではなく前向きな気持ちもあったと思えたろうに。
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