第56話 侯爵は違和感を拭えない
(……嗚呼、マギー)
ゲイリー・シスレーの胸の中に、温かい光が灯る。
(嗚呼、見ているか? 君のお陰だ!)
目の前の、お飾りの妻が頬を染めて照れながら本心を語ってくれた。
その様子は、固く閉じていた深紅の薔薇の蕾が開いたようでもあり、ずっと人間を警戒してこちらに近寄らなかった猫がやっと懐いて喉を鳴らしてくれたようでもある。
いつも愛想笑いで本心を隠し、まるで人形のような冷たさと完璧さを持って現れた最初の頃の公爵令嬢はここには居ない。
それは、紛れもなく侯爵とシスレー邸の皆がデボラに対して丁寧に接していた日々の積み重ねによるものだ。
マグダラがシスレー邸の皆を愛し慈しみ、亡くなる時にも「誰も憎まないで。恨まないで」と遺言を伝えなければ実現しなかった功績なのだ。
最愛の元妻との間には子供を作ることが出来なかった。けれども、彼女の遺したものは確実にここにあると彼は実感し、目頭が熱くなった。
「でっ、デボラ様……!」
しかしシスレー侯爵の目の潤みはすぐに消えた。彼の代わりにメイドのシェリーが感極まって声を震わせながらデボラの元に駆け寄ったからだ。
「私もっ、私もデボラ様が好きですっ!」
「……まあ、本当に?」
デボラは心底驚いたと言うように目を丸くし、そしてふんわりと雪解けのような笑みを浮かべる。
「そうだったら嬉しいわ……私、今までの立場では公平を期すために誰とも仲を深めてはいけないような気がしていたの。だから親しいお友達も居なくて……」
「!!……っ、そんなこと言われたらぁ~」
シェリーの涙腺は容易く決壊し、ずびずびと鼻を鳴らす。そこへローレン夫人が近づき、半分呆れたように……しかしもう半分は優しい声音で言った。
「シェリー、仲を深めるのは良いことだけれど、一応貴女はデボラ様にお仕えする立場ですからね。そこの線引きだけはきっちりするべきですよ」
「はい……」
「でも、そうね。気持ちはわかります。私も多分同じですもの」
「えっ」
目を丸くするデボラとシェリーに向かって、メイド長はコホンと小さな咳払いをしてからこう述べた。
「デボラ様、私にとってマグダラ様は特別な人でした。主人ではありますが、同時に愛する妹のような存在でもあったんです。デボラ様との関係はそういったものとは違いますが……でも、私は貴女様に心を尽くしてお仕えしたい。今はそう思っています」
相変わらずのかっちりとした真面目な顔と言葉。それでもほんの少し口角と口調が優しげに緩んでいる様子から、それが夫人なりの「私も貴女が好きです」という表現なのだと、デボラにも、周りにもきちんと伝わった。
デボラが一層笑顔になる。心からの、子供のような純真さを伴った美しい笑顔。
「ミセスローレンもありがとう。……なんて言ったら良いのかしら……とっても嬉しい」
「こちらこそありがとうございます。デボラ様、先程の刺繍の件ですが、私はそれほど上手ではないのですが……針の持ち方や基本的な縫い方を教える程度ならお手伝いが出来るかと」
「ありがとう。とても心強いわ!」
「あっ、そうだデボラ様、もし刺し方の手順書や教本のようなものを作るなら、文字ではなくて図解をメインにしてみたらどうでしょう?」
「図解を?」
「ええ、それなら文字が読めない人でも理解できるかもしれません。作るのは大変ですけど……」
「そうね! シェリー、ありがとう。早速書いてみるわね」
三人がわいわいとこれからの話に盛り上がっているのを、侯爵は微笑ましく見てから自室に戻った。
そして少し後から気がついたのだ。
デボラは「今までの立場では公平を期すために誰とも仲を深めてはいけないような気がしていた」と言った。以前、彼女を温室に案内する手前で彼女は「思ったままの事を口に出すのは貴族女性として失格だ」とも言っていた。
その時も思ったが、彼女は祖国では大層窮屈な思いをしていたに違いない。王太子の婚約者として、未来の王妃として常にその挙動を誰かに見られていたのだ。そして親しい友人を作ることもできないほど、ドロドロとした女の戦いもあったのかもしれない。
(でも……何かがひっかかる。……何がだ?)
シスレー侯爵は形容しがたい違和感が自分の中に生まれていることをもどかしく感じた。
デボラの先程の態度が、子供のような素直さが嘘には見えなかったし、嘘だとも思いたくない。ずっと孤独だった彼女に、この屋敷に遺されたマグダラの慈しみが安らぎを与えたのだと信じたい。
だが、違和感が拭えない。今までの彼女の行動や、今日「疑われぬように外部の人間との触れあいを避けたい」と自ら提案したことを思い返せば、今更彼女がスパイだとも思えないのに。
「あっ」
ゲイリー・シスレー侯爵はやっと気がついた。彼女は祖国では孤独だったのだ。
本心を隠し、つまらない会話をしないよう父親に厳しく注意されたと言っていた。親しい友達も居ないと言っていた。それでも本心を打ち明ける侍女の一人も居たと考えても良いが、供を連れず単身でこの国に来ている。先ほどのシェリーやローレン夫人に対する態度を考えるとそもそも侍女に心を許すことすら難しかったのではないか。
では、孤独な彼女の心を支えていたのは誰だろう。消去法で言えば婚約者であるアーロン王子だ。
スワロウが仕入れてきてくれた情報によると、マムート王国内では「王子が病により離宮暮らしとなったが、デボラを巻き込まない為にわざと婚約破棄をした。デボラは後からそれを知り、別の王族や高位貴族に嫁入りをするのではなく和平のための人質生活を自ら選んだ」と噂されているらしい。
一見して、筋が通っているように思える。彼女がここに来て「何かさせて欲しい。ただ世話になるのは心苦しい」と言い出したように、献身的な性格であればそれも理解できる。
だが、王太子妃になるために厳しい努力をデボラに強いてきた父親が、何故それを許したのだろうか。あれだけ美しく賢い令嬢なら引く手
(人質になることが、一番道具として良い使い道だった……?)
彼はすぐさまデスクにつくと、家紋入りの正式な便箋を取り出し、今の考えを簡潔にまとめて手紙にしたため、封蝋を捺した。
「アシュレイ、これを至急で隣の領地へ」
執事長は封筒の表に書かれた「親愛なるRへ」という文字で宛先を理解する。それは以前、コーネルの件で内々に第二王子へ相談をした時と同じだったからだ。
「かしこまりました」
アシュレイは美しいお辞儀をすると、侯爵家で一番早い馬を手配すべく素早く退室した。
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