第12話 若き執事長の苦悩

 ◆



 その日、執事長のアシュレイは半日の休みを貰い街に出ていた。

 シスレー邸から程近いこの街は、領内では最も栄えている。その大通りに軒を連ねる店のひとつ、万屋よろずやに彼は入店した。


「酒はあるか」

「はいはい、良いのが入ってますよ」


 恰幅のよい店主に勧められた酒を二瓶買い求め、店を出る。その後の彼はぶらぶらと当てもなく歩いているように見えていた。が、実はそうではない。


 石畳が敷き詰められた大通りや主要な道を外れ、土が踏み固められた裏路地へ入り、そこでも時に遠回りをしながらも彼は目的地を目指していた。


 ある集合住宅アパートメントの入口の前の道に、一人の老婆が小さな腰掛けを出して座っている。彼女はアシュレイを見ると震える両手を差し出してこう言った。


「おお、そこの若くて健康なお兄さん、アタシにゃあアンタと違ってよく見える目も、よく聞こえる耳も、丈夫な歯や骨も無い。せめてもの慈悲をくれないかい?」


 アシュレイは口の中で何かを――――恐らくは「クソッタレ」というような事を――――呟いて、彼女に酒瓶のひとつを手渡した。と、それまで小刻みに震えながら緩慢に動いていた老婆は、30も若返ったかと思えるような素早い動きで瓶を抱えたまま腰掛けを拾い上げ、ドアの向こうに消える。

 直後、老婆が入ったドアの一つ先のドアから小さくカチリと音がした。


 アシュレイは口をへの字に曲げ、その扉を開けて中に入る。彼が扉を内側から閉めると、すぐにカチリと音がして鍵がかかった。目の前には二階へと続く階段。彼は薄暗い中つまづかぬように注意して階段を上がっていく。と、二階の部屋の扉には木札がかかっており、それには上向きの矢印が描かれていた。


 アシュレイはもう一度口の中で悪態を呟くと、屋上に上がる梯子に足をかける。

 酒瓶を抱えながら片手で梯子を手繰り屋上に出ると、全身黒ずくめの老いた男が鼻唄を歌いながら街の景色を眺めている図が目に入った。

 男はすぐにアシュレイに気づき、ニヤリと笑む。


「おう、また来たか、ダン坊」

「ダン坊はやめてください。あと、何ですかあの茶番は?」


 アシュレイがうんざりとした顔で言うと、男は入口にいた老婆(のフリをした人物)の事だとすぐに気づいたらしい。楽しそうに笑った。


「いいだろう? アレが門番を務めてるだなんて誰も気づかないさ。手土産はなんだい?」

「これを」


 アシュレイが男に酒を手渡す。彼は眼鏡を外してラベルを顔の前に持ってきた。


「ほう、こりゃあいい。アレも今頃喜んで飲んでるだろうな」


 彼は屋上に設えた小さなテーブルに近寄ると、そこに置いていた小さな二つのグラスに酒を注ぐ。


「ダン、君も飲むかい」

「いえ、この後仕事ですから」

「そうか。残念だな」


 黒ずくめの男は椅子に座り、足を組む。グラスをもうひとつのグラスにチン、と当ててから酒をちびりと飲む。老いてはいるが、その見た目の年齢にそぐわぬキビキビとした動きと指先まで神経の通った綺麗な姿勢が非常に絵になる姿だった。


「で、何の用だ。先週も来たばかりじゃないか」

の国について続報がないかと」


 男は呆れた。


「おいおい……。戦争が終わったとはいえ、まだあの国との国交は回復していない。商流がなければ人流は限られる。ならば簡単に情報も流れてこないって事ぐらいお前もわかってるだろう?」

「ですが、悠長にはいられないんです! こうしている間にもあの女は次々と使用人を味方にするかもしれない」


 アシュレイが、ローレン夫人から聞いた事や、シェリーがすっかりデボラに同情し気安くなった事を話して聞かせると老いた男は顎をあげて笑った。


「へえー、あのソバカス娘がねぇ! 屋敷に来た頃は失敗ばかりしていたのに、他人様に肩入れするなんざ偉くなったもんじゃないか!」

「あの女、人質だからと殊勝にしているんだとシェリーは思っている様ですが、王太子の婚約者だった女がそんな事を考えるわけがないでしょう! 偽物に騙されているんですよ!」


 アシュレイは怒りの炎を瞳に燃やした。


「俺があの女の化けの皮を剥がしてやる。絶対に」

「ふーん? お前が?」


 男が面白そうにそう言うと、アシュレイは茶化されたと感じ、苦い顔をする。


「俺には無理だというんですか!?」

「難しいなぁ。だって旦那様とミセスローレンは、その花嫁を本物だと思ってるんだろう? お前はあの二人よりも人を見る目を持っていると主張する気か?」


 男の言葉に、アシュレイは後ろから殴られたかのように目を見開き言葉を失った。


「それは……」

「もしも花嫁があの二人の目を欺きつつシェリーソバカス娘が心を許すまで無邪気なフリをできるほどの凄腕なら、どの道お前の前で尻尾を出すことはないだろう。それならば偽物だと疑うだけ無駄だよ」

「で、でも、可能性はゼロじゃない筈です!」


 男はもう一度酒を口にして、グラスをトンと音を立ててテーブルに置く。長く細く息を吐いてからこう言った。


「じゃあ俺と交代するか。何とか老体に鞭を打ち復帰して、その女を見張ってやる。お前が喪に服せ」

「スワロウさん……」


 男の一度閉じた目が開くと、ギラリとアシュレイを見据えた。


「ダン坊、お前は少し頭を冷やした方が良い。あの国を憎みたい気持ちはわかる。……俺だってそうだ。だがそれを人質にぶつけようとしてやいないか」

「……」

「俺がお前に後を譲ったのは、そんな事の為じゃない。屋敷の事も、領地の事も、お前なら旦那様を支えられると思ったからだ。亡くなった奥様だってそう思ってくれている筈だ」


 20代後半の若き執事長は、少年が泣くかのように顔を歪めた後、瞬時に本来の執事然とした顔を取り戻した。それを見た男は今までの厳しい顔を崩し、明るく茶化した態度に戻る。


「まあ、可能性で言えばなんだってあるさ。例えばその花嫁は少しここが弱い、とかな」


 老いた男は自分の頭を軽くつついた。


「は? そんな事……」

「いや? あるかもしれないぞ。初対面で破廉恥な事を言う迂闊さ、乏しい表情、娯楽小説を最後まで読まずに飛ばす堪え性のなさ、ソバカス娘がつい世話を焼きたくなるほどの至らなさ……」

「で、でも見事な刺繍を刺しているし」

「そういう類いの人間はひとまとめに出来ないんだ。自分の得意分野だけ異常な集中力を見せ、普通の人間より巧く仕事をこなすタイプもいる」


 黒ずくめの老いた男――――半年前までシスレー侯爵家の執事長だったスワロウ――――はアシュレイに向かってニヤリと笑った。


「それまで彼女が少し足りない人間だということを公爵家が必死に隠していたが、婚約者だった王子が病気になり、王太子を降りた事で他に嫁入りせざるを得なくなった。だから交流の無いこの国に、厄介払いとして押し付けた……なんてどうだ?」


 アシュレイは呆気にとられ言葉を返せなかった。それを否定したくとも、妙に辻褄が合ってしまっていたからだ。

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