第11話 朝食のサラダ
◆
ここ数日、シスレー侯爵は何度かデボラと朝食を共にしている。それまでは朝食どころか一日の間に全く顔を合わせない事が殆どだったのに、二人は朝食を摂りながら当たり障りのない会話を一言二言交わすようになったのだ。そして今日は更に少し会話が増えた。そのきっかけは蕪のスープを飲んだことだった。
ふわりと湯気が立つあたたかい塩味のスープに、柔らかく煮込まれた半透明の蕪が浮かんでいる。デボラがスープを飲み、胃の腑に優しく収まる感覚に思わずほう、と小さく息を吐くと、侯爵は優しく微笑んだ。
「ご満足いただけたかな?」
「!」
デボラの頬にほんのりと恥じらいの朱が差した。が、食堂に差し込む光は彼女を背中から照らしていたので逆光となり、侯爵にはどうやら気づかれずに済んだようだ。
「はしたない真似を……お恥ずかしい限りですわ」
「いや、いや。こんな田舎では、美味いものは素直に美味いと言うのがマナーだよ。田舎料理しか出せないからデボラ嬢の口に合うものは少ないだろうがね」
デボラは首を小さく横に振る。
「そんな事はありませんわ。いつもとても美味しいお料理を頂いて感謝しております」
アーロン王子の婚約者となり王子妃教育が始まった際、デボラは公爵領から王都の屋敷に住まいを移した。更に彼が王太子となった後は彼女は厳重に警護される対象となった。当然食べる物にはほとんどの場合に毒見がなされ、時間をおいて毒味係に異変がないことを確認してからでないと食べる事を許されない。あたたかいスープは冷め、冷たい料理はぬるくなり、みずみずしい野菜は乾燥して萎びる。そうなればどんな豪華な料理とて美味しさは半減してしまう。
彼女は皿に手を添えて、中に入った蕪のスープを見つめる。シンプルではあるが、それだけにやさしい味であたたかいスープは、デボラにとっては御馳走だった。
シスレー侯爵はデボラが本心から料理を褒めたと受け止めてくれたようだ。
「そうか。マムート王国では王太子の婚約者だった君に称賛されたとなれば、うちの料理長も喜ぶだろう」
デボラの脳裏に頑固そうな料理長の顔が浮かぶ。彼女はシスレー邸での生活二日目には屋敷中の使用人に挨拶をしていたが、料理長はむっつりと押し黙ったまま軽く頭を下げただけだった。明らかに歓迎はされていないデボラが彼に直接お礼を言ったとて、喜びはしないだろうと思われる。デボラは微笑んで侯爵に告げた。
「ええ、是非そのようにお伝えください。あ、あとこれも美味しいと」
「どれかな?」
「このサラダ、とても新鮮で。まるで採れたてのようです」
「……っ」
その瞬間、デボラはハッとした。
ここにきて一週間あまりが経つ。シスレー侯爵と顔を合わせたのは片手で数えられるほどの回数とは言うものの、彼はいつ会っても優しげで余裕のある男だった。しかしその侯爵が、この時初めて引きつるような真顔を見せたのだ。
だが、彼は次の一瞬にはいつもの微笑みを取り戻しデボラに語りかける。
「……ああ、本当に採れたてなんだよ。この屋敷の庭で育てた野菜を毎朝摘み取ってサラダにしているんだ」
「まあ、そうだったのですか。素晴らしいですね」
デボラは侯爵の変化に気づかなかったように振る舞う。直感で、それには触れてはならないような気がしたからだった。
(あれは……哀しみ? それとも……)
侯爵の表情の意味を図りかねるデボラだったが、その半分はすぐ後に知ることになる。朝食を終えた彼女が自室に戻った時の事。
「ねえ、今朝食べた野菜が美味しくて、侯爵様にここの庭で育てた野菜だと聞いたのだけれど、庭のどの辺にあるのかしら」
デボラは世間話のつもりでメイドのシェリーにその話を振った。最近シェリーはデボラに対して気安い雰囲気になり、ただのお喋りにも応えてくれるようになっていたからだ。だが今回、彼女は少しだけ眉をしかめて言った。
「デボラ様、畑と温室には近寄らないほうが良いと思います」
「何故?」
「……旦那様が、あまり人を近づけさせたがらないので」
いつもは明るいシェリーの顔に陰がかかる。デボラは1つの可能性を思い当たった。この屋敷に始めて来た日のシスレー侯爵の言葉が浮かぶ。
“それに私は亡くなった妻だけを愛しているのでね。”
「……もしかして、前の奥様が畑と温室を管理されていたのかしら?」
シェリーはぴくりと肩を動かし、暫くしてから口を開いた。
「はい。旦那様にとって……いいえ、この屋敷の皆にとって、奥様との思い出の場所なんです」
デボラは今まで、屋敷の使用人達が自分によそよそしいのは単に敵国の人間だからだと思っていたが、もしかして後妻なのも理由のひとつだろうかと思った。
――――後に、それは誤りだったと知るのだが――――
「……そう。奥様はとても素敵な方だったのね」
デボラが言うと、シェリーは困ったような、微笑むような、複雑な表情を見せて小さく頷いた。
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