第47話 思いの丈を涙と共に


 やがてアシュレイが談話室にやってくるとリオルドの護衛に小さな声で話しかけた。護衛はその伝言を王子に伝える。


「殿下、迎えの馬車が到着致しました」

「そうか。ではそろそろ発つことにしよう」


 シスレー邸の全員が玄関に集まり、王子を見送る。 若い使用人たちは心なしか頬に血がのぼり、緊張しているようだが、取り乱す者は居なかった。


「殿下、本日はご多忙の中、誠にありがとうございました」


 侯爵の言葉に合わせてデボラも、使用人も皆一斉に頭を下げる。


「ああ、シスレー候」


 いち早く頭を上げた侯爵を、リオルドは手招きで呼び寄せる。素早く近づいたシスレー侯爵に囁いた。


「奥方は間違いなく本物のデボラ・マウジー嬢だ。俺の外遊に対応した時から彼女が替え玉だったのでない限り、な」

「!」


 眼を丸くするシスレー侯爵に、リオルドは端正な顔をニヤリと歪めて見せた。


 彼が先ほど廊下にて「俺を照らす星の光を曇らせるわけにはいかん」と言った時、デボラは即座に“星”が王子妃ヴィオレッタを指している、と気づいて切り返した。

 だが実はリオルドが愛する妻を星に例えてみせたのは過去でただ一度きり。二年前の外遊の際、アーロンとデボラの前で何気ない会話に織り交ぜてのことだった。


 リオルドは遊び半分、何かの役に立つかとの考え半分で、他国を訪れるごとに妻を違うもので例えていたのだ。ある時は花、ある時は月、またある時は美しく囀る小鳥……。それが本当に役に立ったという訳である。


 彼はポンポンと侯爵の肩を叩きながら言う。


「今日は無理をしてでも来た甲斐があった。奥方だけでなく、候の顔色も以前会った時よりはだいぶ良いようだしな」

「は」

「シスレー候、俺の選択は間違っていなかったと思うがな?」

「……」


 侯爵は一瞬言葉に詰まる。が、すぐに笑みを浮かべてもう一度頭を下げた。


「その通りです。殿下のお心遣い、誠にありがたく存じます」

「流石は俺だ! ではまたな!」


 自画自賛と簡素な別れの挨拶を高らかに宣言し、第二王子は平服姿のままで王家の馬車に乗り込んだ。

 馬車がシスレー邸の門を通過した後も、一同は誰も屋敷の中に戻らず、ずっと見送っていた。馬車がようやく見えなくなると、シスレー侯爵は振り向いて謝罪をする。


「皆、すまない。まさか高官ではなくリオルド殿下直々にお出でになるとは、私も予想していなかった。さぞかし驚いたろう」


 その言葉をきっかけに、皆の緊張がどっと緩んだ。へなへなとしゃがみこむ者や「王族がうちのお屋敷にいらっしゃるなんて!」「自慢しないと!」と興奮する者、様々な反応だ。それをぼんやりと眺めていたデボラのそばに侯爵が歩み寄る。


「デボラ嬢にも謝りたい。君を巻き込むつもりは本当に無かったんだ」

「え」

「王都に向かったふりをして領地の外で高官と待ち合わせ、コーネルの実態をその目で確認して貰おうという作戦だったのだが……まさかあいつが君の部屋の鍵を無理やり開けようとするとは思わなかった」


 部屋から絶対に出るなと言われていたのは、デボラをコーネルから守るためだったのだ。なんとなくそうではないかと予想していたものの、思わずデボラの唇から「まあ」と声が漏れた。


「でも、君が殿下を覚えていてくれて助かったよ。ありがとう」


 スカイブルーの瞳に優しく見つめられて、デボラの顔がじんわりと熱くなる。リオルドの前では冷静にそつなく対応していたデボラの声が僅かに震えた。


「私……侯爵様のお役に立てたのでしょうか?」

「勿論だ。デボラ嬢にしか出来ないことだったからね」


 侯爵のその言葉は魔法のようだった。頬の熱を目の下でピリピリとした小さい痺れに変え、彼女のかぶっていた美しく冷たい人形令嬢の仮面にヒビを入れる魔法。


「デボラ嬢?」


 デボラは目の縁を赤くし、そして潤ませながら、声を詰まらせる。


「……お役に立てて良かったです」


 こんな自分でも、誰にも愛されないただの道具でも侯爵の役にたったのだ。これが最後の機会かもしれないけれど。そう思って絞り出した言葉だった。


「いや、ちょっと待ってくれ」

「?」

「何故そんな事を? これで最後みたいな言い方じゃないか」

「あ……」


 まるでデボラの心が透けて見えたかのように侯爵が図星を突く。デボラは急いで愛想笑いを作り誤魔化そうとした。けれども、既にヒビの入った仮面をかぶることはできない。


 目の前のシスレー侯爵の顔が、一瞬ガラス玉を通したように歪み見えなくなった。デボラが瞬くと温かい液体が目から零れて頬を伝う。彼女はそれで視界を取り戻せたが、改めて見る侯爵の顔はぎょっと慌てた様子に変わっていた。そしてまたすぐに視界が歪む。


「デボラ様!」


 同じく困惑した様子のローレン夫人が駆け寄ってきた。デボラは目から涙がポロポロと落ちていくのを感じながら、二人が慌てている理由がわからずにいる。今の彼女は大きな感情が胸を、喉を、頭をいっぱいに占めていて、二人の事を深く考える余裕がなかった。


「だっ……だって、わたくし、は」


 涙と一緒に切れ切れの言葉が零れ落ちる。


「ここに、居たら、皆に……め、いわくを」


 間髪を入れず侯爵が訊ねる。


「誰がいつ君のことを迷惑だと言った?」


 それは鋭く切り込んだ質問ではあったが、デボラや誰かを責めるような言い方ではなかった。いつもの優しい……そしていつもとは違う、少しだけ困ったような侯爵の表情に、デボラの涙がまたじわりと滲む。


「それ、は、誰も」


 誰もそんな事は言っていない。言うわけが無いのだ。ここの皆は優しいから、心ではそう思っていても、面と向かって言えないに違いないとデボラは思う。侯爵やローレン夫人をまともに見るとまた涙が溢れてしまいそうで、視線を彷徨わせた。と、左頬を赤く腫らしたアシュレイと目が合う。彼は苦笑を浮かべる。


「私ですらそこまで言った事はない筈ですよ。それに私は先ほど、今までの無礼についてお詫びをしたばかりでしょう? デボラ様を迷惑だと思う人なぞここには居ません」


 今まで敵対的な雰囲気を見せていたアシュレイにさえ優しくされて、一層デボラの唇が震え、涙が零れる。


「でも、でも。先の戦で、お、奥様は……」

「!!」


 デボラの言葉で三人の表情が凍りついた。だが彼女の目は次から次へと溢れる涙でまともな視界が確保できず、侯爵らの表情までは見えない。ただただ、思いの丈を涙と共に落とし続ける。


「奥様が亡くなったのは、わ、わたくしの国のせいなのでしょう……? ごめんなさい……」


 そこまでをやっと言うとデボラは顔を覆い、言葉にならない声を涙に混ぜる。


「う……ああ……」

「デボラ嬢」


 彼女の肩にそっと、侯爵の大きな手が置かれた。


「君のせいじゃない。君は自分を責めなくていいんだ」

「で、でも」

「本当に、君のせいじゃないんだ……」


 その悲しそうな声音に、デボラは涙に濡れた頬を上げた。目の前の侯爵が悲壮な表情を浮かべている。だがその顔と、先ほどの言葉の意味がわからない彼女は、ここに来て初めて侯爵の言葉を疑った。彼は無理をして「君のせいではない」と心にもないことを言っているのではないかと。


「デボラ様」


 そこにローレン夫人がデボラの手を取る。やはり悲しそうな表情で。


「私も旦那様と同じ意見です。貴女のせいではありません。そんなにご自分をお責めにならないでください」

「だけど……」


 デボラの言葉を遮るようにアシュレイが他の使用人に向けて指示を出した。


「もう一度談話室にお茶の用意を! デボラ様の心が落ち着かれるような飲み物を頼む」


 その場にいて、おろおろと様子を見守っていた使用人たちは、一斉にさっと動き出した。

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