第29話 きっと玉ねぎのせい
デボラは昨日のシスレー侯爵が、柔らかい表情で愛する妻を懐かしんでいた様子をハッキリと思い出す。
“使用人どころか領民にまで気軽に話しかけて、時には一緒に泥まみれになって農作業をやるくらいだった”
その瞬間、彼女は胸にちくりと小さな痛みをおぼえた。だが、それは一瞬だったのでデボラは気に留めずに考え続ける。
きっとマグダラは、肉屋の使いでシスレー邸に時折来ていたトムにも声をかけていたのだろう。気さくで優しい領主夫人をトムは大好きだったと想像できる。彼女が戦で亡くなったのなら彼がマムートを憎むのはごく自然な成り行きだ。
じくり。
今度は先程よりも少しだけ大きな痛みがデボラの胸に走った。
「?」
だが、彼女はその痛みも無視する。もうすぐシェリーがお茶を用意して戻ってくるだろう。それまでに考えをまとめなければ。
「シェリー……」
シェリーも、だ。あの親切で優しいメイドは最初の数日こそ戸惑い、デボラとどう距離を取ろうか迷っていたがすぐに彼女に心を開き、優しく世話をしてくれ、沢山お喋りをしてくれた。彼女の表情はデボラと真逆でとてもわかりやすい。
でもそのシェリーに、朝食のサラダの野菜を庭で育てていると聞いた時。前の妻、マグダラについて触れると彼女は困ったような、微笑むような、複雑な表情を見せた。シェリーのあんな顔を見たのは一度きり。
ずくり。
「!?」
また、デボラの胸が痛む。流石に今回は無視できなかった。
(何? ああ、何故)
胸がいつもより大きく鼓動を刻む。それは彼女の身体の中を上ってゆき、喉を震わせ渇かした。反対に鼻は潤いツンとした刺激を与える。思わず胸を押さえ、かけていた椅子に完全に身を預け小さく震えるデボラ。
「失礼します。お待たせ致しました……」
お茶の支度をしたシェリーが部屋に入ってきてデボラを見た途端、言葉を途切れさせ駆け寄った。
「デボラ様? どうかされましたか!?」
「……シェリー……」
小さな声でそれしか言えなかったデボラの顔は赤みを帯び、苦しそうな表情で目は潤んでいる。
「まあ! 大変! 流行り風邪かしら?」
シェリーは自分とデボラの額に手を当てる。その拍子にデボラの目から涙がぽろりと溢れた。
「シェリー……私」
「ああ、喋らないでください。寝ましょう! まだ熱はないみたいですけどこれから上がりそうですし!」
勘違いをしたシェリーはデボラに有無を言わせず寝室に連れていくとドレスを脱がせ、寝巻きに着替えさせてベッドに押し込む。
「ローレンさんに、風邪に効く飲み物を用意して貰いますから大人しくしていてくださいね!」
「……ありがとう」
デボラはそっと目元を拭うと枕に頭を預けた。赤い髪が白いシーツの上に美しい波を作り広がる。彼女は目を閉じてこうなった理由を自らに問う。
(何故、涙なんて出たのかしら)
デボラは祖国ではもっと酷い目に遭わされていたのに涙することなどなかった。
婚約者であるアーロンに突然婚約破棄を告げられ、フィオナを虐めたと濡れ衣を着せられた時も。その後自宅に戻ると、両親が彼女を労るどころか叱責し、領地の自室に閉じ込められた時も。更に、信じていた家族に裏切られ捨てられて、国外追放をされた時でさえも。
彼女はいつも微笑みの仮面を被ったまま、窮地に陥っても「損切り」だとか「あれよりはマシ」だとか冷静に考えて対処してきたのだ。
今はそれよりもずっと優しい扱いを受けているのに、何故涙が出るのか。
(……きっと玉ねぎのせいね)
先日玉ねぎの皮を剥いた時にボロボロと泣いたせいで、きっと涙腺が緩んでしまったのだろう。人前で泣くなんて10年以上していなかったのだから。デボラはそう結論づけ、横になっていると上品なノックが聞こえた。
「失礼致します」
ノックと同じく上品だがよく通る声。その声の持ち主はスワロウだろう。
「デボラ様、旦那様がご様子を伺いたいと。お通しして宜しいでしょうか」
デボラの白い顔がさらに青白くなる。今はシスレー侯爵の顔を見れない。見たくない。
そばにいたシェリーにこう告げる。
「侯爵様は明朝発たれるのでしょう? 今お会いして、私の風邪をうつしでもしたら大変ですもの。せっかくだけれどお会いしない方が良いわ」
「あっ、確かにそうですね!」
シェリーは寝室と私室をつなぐドアを細く開け、スワロウにデボラの言葉を伝えた。
「……デボラ嬢」
その細く開いたドアの間から、低く、柔らかいシスレー侯爵の声が聞こえる。デボラはびくりとして、上掛けのシーツを目の上まで引っ張り上げた。
「体調が優れないところに押し掛けて申し訳ない。熱は無いと聞いたが大丈夫か?」
デボラはシーツで顔を隠したままこくりと頷く。口を開けば震え声にならない自信がなかったから。
「……そうか。ゆっくり休んでくれ」
ドアが静かに閉められる気配をシーツの下で感じ取りながら、デボラは静かに泣いていた。シスレー侯爵の声はいつも優しく柔らかく、相手を包み込むようだ。初めて出会った時から変わらない。
その声で彼はああ言ったのだ。
“君を愛することはない。わかっているだろうが君は我が国の人質だ”
“それに私は亡くなった妻だけを愛しているのでね”
“彼女にも同じように仕えて欲しいと願うのは我が儘だろうか?”
愛する妻を奪った敵国の人間に向かい、微笑んでそう言った彼の内心は果たしてどうだったのだろう。
それを思うだけで、デボラの涙は止まらなかった。
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