第26話 宙を舞う丸鶏

「デボラ様、おはようございます!」

「おはよう。シェリー」


 メイドのシェリーが部屋に入ると、デボラは既に簡素なワンピースドレスを自分ひとりで着替え、鏡台の前に座って髪を梳かしているところだった。もうすっかりお馴染みの光景である。


「今日はいつもと少し違う髪の結い方をしてみましょうか」

「あらそうなの?」

「ええ。前に教えた方法は、もうすっかり覚えられたようなので。あ、デボラ様が別の結い方を覚えたいなら、って話ですけど」

「勿論知りたいわ! 是非お願い」

「あ!」

「?」

「デボラ様、今『是非お願い』の時に愛想笑いが思いっきり出てました」


 シェリーは苦笑し、デボラは「まあ」と言って気まずそうに灰色の目を伏せる。先日シスレー侯爵や庭師に言われたことをローレン夫人とシェリーに伝え、「これからはできるだけ愛想笑いを直すように努力してみる」と言ったのだが、なかなかすぐには直らない。今日もまた失敗してしまった。


「やっぱりお願いをする時にそうなる癖がついているのね……」

「そんなに悪いことでは無いんですけどね。そっちを無理に直すよりも、その前後で真顔になる方を修正してみたらどうですか?」

「ええ……それもわかっているんだけれど」


 デボラは鏡の中の自分を覗き込む。表情の乏しい赤毛の女性が向こうから自分を見返し、小さくため息をついた。


 シェリーに髪の結い方を教えて貰いながら支度を終えると朝食の為食堂に向かう。デボラが席についたころシスレー侯爵がやってきた。


「おはよう、デボラ嬢」

「おはようございます、侯爵様」


 侯爵は今日も優しい笑顔で挨拶を返してくれる。デボラはそれを見るとほんの少し微笑みを浮かべたが、またすぐに灰色の目がガラス玉のようになってしまった。


「……どうかしたかね?」

「いいえ、何でもありません」


 口ではそう言ってにっこりと笑顔を作るが、デボラの胸中は複雑である。先ほどシスレー侯爵の優しさに心が安らぐ自分に気づいて……そして父や兄達がこんな人だったら、毎日の朝食の席がきっと楽しかったのに……と思ってしまったのだ。

 彼女は侯爵家の温かい雰囲気に触れるうちに、あまりにもマウジー公爵家と違うことに戸惑い、そして羨ましいと思うようになっていた。


(でも、私はここの家族にはなれないのに)


 元々侯爵とは白い結婚だ。加えて、人質の価値がないという隠しごとを持つデボラには後ろめたさもある。本当の意味で侯爵とその使用人たちとは決して家族にはなれない。その現実に彼女の心は冷え、表情も冷たく固いものに戻ってしまう。


「コホン」


 小さく上品な咳払いが聴こえ、はっと振り向くとローレン夫人がデボラを見つめている。その横にはアシュレイが怪訝そうな表情を隠していなかった。


「あの、私、またやってしまいました……?」

「ふふっ、そうだね。また愛想笑いをしてから真顔になっていた」

「申し訳ございません……」

「まあ、そんなに簡単に直せるものじゃないだろう。ゆっくりとやればいいさ。あ、そうだ今日の午後からスワロウが来てくれるから、彼にも相談するといい」

「その方は……?」

「先代の頃からうちの侯爵家を支えてくれた執事長だよ。もう引退しているんだが、明日の早朝には私はここを発つから不在を任せる事にした。なんでも頼ると良い」

「はい」

「あ、それと」

「はい」

「申し訳ないが、私が不在の間は出来るだけ部屋から出ないでほしいんだ。窮屈だと思うが、私が王都から戻る一週間ほどの間だけだから我慢してほしい」

「はい。わかりました……」

「庭の散歩も難しいから、今日のうちに十分楽しんでおくといい」

「はい」



 ◆



 デボラは侯爵に言われたとおり、庭を散策した。ローレン夫人は明日以降の侯爵不在の間の準備で忙しいようだったので今日はシェリーが付き添いだ。


「あら……?」


 デボラは呟いた。正門の方から一人の少年が歩いてくるのが遠目に見える。彼の頭よりも大きな包みを大事そうに抱えて。


「あの子は?」

「ああ、肉屋で働くトムですね。肉を注文した家に届ける使いをやっているんです」

「あんなに小さな子が……」


 まだどう見ても9歳からせいぜい11歳ぐらいの子どもだ。デボラはそういう環境の子どもがいることは勿論知っていたし、公爵家運営の孤児院を視察したり、領内でも親を手伝って働く子を見たりしていたので初めての光景ではない。ただ、やはりそれでも彼を見ると何とも言えない気持ちになった。そういった貧しい子どもたちを一人でも多く救うのが未来の王妃の仕事だと思って、マムート王国では今まで王子妃教育や王子のサポートにも励んでいたからかもしれない。


「働き者でいい子ですよ! ミスもしませんし……」


 シェリーの言葉はとても皮肉なものになった。


「あっ!!」


 彼女が言いかけた途端、大きな包みで足元の視界がふさがれていたトムは庭の敷石の僅かな段差につまづいて転んでしまったのだ。彼は倒れ、抱えていた包みは放り出されて宙をくるくると舞う。空中に存在する間に肉を包んでいた布が二枚ともぶわりと空気をはらみ、ぴらりと剥がれてしまった。ボンッ、テン、テン……という音と共にむき出しになった丸鶏の肉が地面に転がる。


「あ! あ……」


 少年は起き上がると、すりむいて血を流した膝をそのままに肉塊に駆け寄る。土のついた鶏肉を見て顔を青ざめさせ、目から涙が溢れそうになるがぐっと堪えている。シェリーは小走りで彼に近づいた。


「大丈夫? トム」

「シェリーさん……どうしよう……肉が」

「お肉よりも怪我の方が大事だわ。手当をしましょう?」


 二人が声の方を見ると、デボラが近づいておりポケットからハンカチを取り出しているところだった。


「これを使って」


 見るからに上等な絹製で、丁寧な刺繍が施してある真っ白なハンカチを差し出されたトムは更に顔を青ざめさせたし、シェリーは慌てて首を横に振る。


「そんな高そうなもの! 私のハンカチを」

「でもそうしたらシェリーのハンカチが無くなってしまうでしょう? 私は沢山持っているから気にしないで」


 メイドと少年の二人は遠慮をしたが、結局デボラの愛想笑いの強さに押し負け、庭の井戸に行き傷口を綺麗な水で洗ってデボラのハンカチでしばった。


「ついでにお肉も洗って土を落としてしまえばいいんじゃないかしら?」

「へ!?」

「だってほら、ピーターも玉ねぎを洗って泥を落としていたもの」


 デボラの言葉にシェリーとトムは口をあんぐりと開けた。そんな事を提案するのは元公爵令嬢の立場ではありえない。尤も、今のデボラはもしも侯爵家を追い出された時の為の予行演習としか思っていないからなのだが。


(将来土のついた物を食べる事もあるかもしれないもの。それなら洗えばいいんだわ!)


 ……という、箱入りのお嬢様なりに考えた良いアイデアのつもりだったのだ。

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