新木久志と梶原早希と一匹の猫の非日常

第51話


 春奈はこれまでの経緯を語り終えると、痣の残る顔で、清々しいほど爽やかな笑顔で笑った。信じられない話だったが、目の前の彼女は間違いなく水本春奈だと確信できた。

 

 

心の奥深くで、埃をかぶっていた何重にも固い紐で縛った、彼女との思い出の記憶が詰まった箱。

 

 

あの、胸を焦がすほど夢中になった甘い日々。



胸が引き裂かれるほど辛い最後で終わった記憶を、彼女と一緒に、彼女のおかげで、ようやく開くことが出来た。



あの頃の彼女の声も、笑顔も、匂いや温もりまでもが鮮明に思い出される。同時に、彼女の苦しそうに強がって笑う顔も、泣き声も、ついさっきのことのように目の前に迫ってくる。

 

 

胸が張り裂けんばかりの、激情に心が追いつかない。喉の奥が焼けるように熱く、視界は瞬時に滲んで、彼女の姿が霞んでしまう。拭っても拭っても、頬に熱い雫が這う。

 

 

「正直、驚いたよ。今だってまだちょっと疑ってる。でもわかる。君は、春奈だ…」

 

 

 久志は今すぐにでも大声をあげて泣き喚きたかった。彼女に再会できた喜びを、彼女に酷い別れを突きつけた激しい後悔を、彼女に伝えてあげたかった。

 

 

それを必死に抑えて、声を震わせ、ゴシゴシと目元を何度も拭いながら、早希の姿をした春奈に言うと、彼女は徐に膝を抱え、面白いほど動揺する久志を見て鷹揚に笑った。

 

 

正直、まだ情報の整理が追い付かないでいた。本物の春奈は病気で死に、猫に転生してから自殺未遂をした梶原早希と期間限定の魂の交換をし、本物の梶原早希の意識は今もどこかにいる猫の中にいる。



しかも梶原早希が受けていた凄惨な陵辱に堪え続けていたのは早希の為であり…。聞きたい事は、数えたらきりが無い。



得体の知れない歪な腕に、喉からその太い腕をねじ込まれて心臓を引き抜かれるような壮絶な苦しみに全身を焼かれるような気持ちになった。



その時の春奈の辛酸を舐めるような気持ちを考えようとすれば、どす黒い怒りや悲しみの感情に飲み込まれそうになり、思考どころでは無い。

 

 

先ずは当たり障りの無さそうな事柄から整理して行くのが無難かも知れない。

 

 

 

「そうだ、俺にずっと言いたかった事って…」

と、思ったが、いの一番でどうやら一番の爆弾を引き当ててしまうことになる。

けれど、その質問はどうやら一番の地雷だったようで。踏みつけた瞬間、それは空高く打ち上がり、まるで花火のように、皮肉たっぷりに大空に高く鮮やかに咲き誇った。

 

 

「ん、じゃあ言うから。この超ロマンチックな聖なる夜に、可愛いサンタの私からあなたにプレゼント。よく聞いてね」

 

 

 早希は痴女サンタのコスプレ姿で久志の近くに寄ると、顔を久志の耳元に近づけた。生暖かい吐息が耳にかかり背筋に心地のいい緊張が走る。口が開かれ、口内の粘膜のひく、情欲に触れるような卑猥な音がし、そして。

 

 

「あんたなんか最低最悪。本当に大っ嫌い」

彼女の甘い香りに包まれ、最高なシチュエーションの中で、妖艶な声で囁かれた、恐ろしい一言。

 


一瞬、何を言われているのかわからず、言葉の意味が、一面が真っ白な視界に切り替わるように頭を覆う。しかし春奈の言葉は続いた。

 

 

「私のことなんかすっかり忘れて、よくもこんな可愛い女子高生に鼻の下を伸ばしてくれたなクソ野郎」

 

 

 清々しいほど残酷で、酷く明朗な言葉達が光の渦となって、脳内を掻き回す。早希の声であるはずなのに、春奈の声で脳内で再生され、蘇る。懐かしくて、まだ愛しいその声に、久志はずっと抑えていた何かが、音もなく崩壊した。

 

 

「え?」

戸惑う春奈の声が耳を掠める。

 久志は肩の冷たくなった春奈の肩を抱いた。小さな彼女の背中を引き寄せ胸に強く押し付けた。

 

 

「はるな…はるなあ…はるなああぁ…ごめん!ごめん、ごめんよおおおおぉ!」

 格好も、恥も何もかもかなぐり捨てて、情けないほど無様に、久志はただ心が崩れるまま泣き叫んだ。だらし無いほど次から次へと溢れる熱い雫が、春奈の肩を湿らせる。

 

 

「あんな、酷い事言って、ごめん!ごべん!うわーーん!好きだった!本当はずと好きだったンダヨォぉおおあああああああ!ひっひ~~~~いいい…ぶふ…」

 

 

「ちょ、泣き方キモすぎ。……まあ久志は、いつまで経っても久志だよね…」

 

 

春奈は溜息混じりに言った。泣き虫の子供をあやす様に、春奈の細い腕が背中をポンポンと優しく叩いてくれていた。久志はそうしてしばらく、情けなく春奈の胸の中で泣き続けた。

 

 

「ちょっ、ごめん!もう良く無い?」

春奈は半笑いで久志の肩を引き離すが、春奈の服に付着した鼻水が糸を引いた。

 

 

「うえぇ、やっぱり最低」

春奈は顔を顰めたが、すぐに聖母のような微笑みに変わる。

 

 

「その情けない泣き顔見れてスッキリした」

 

 

「ど、どういたひまして、ぶジューーーるるる」

久志は、鼻をかみながら、腫れた瞼のまま言った。

 

 

「ふひひ」

春奈は、この家に駆けつけてから一番の笑顔を見せてくれた。このままではお笑い種なので、久志はとりあえず泥のように泣き腫らした顔を何とかする事にした。

 

 

 

「そういえば、昨日まで春奈を撮り続けた写真。あの笑顔は…」

久志は言いかけて口籠る。それ以上訊ねるのが怖かった。なぜなら、自分は彼女が春奈だとは知らずに、彼女が言うようにただただ、梶原早希に鼻の下を伸ばして自己欲求に忠実な下心で写真を撮っていたのだから。

 

 

「変態…」

春奈は、早希の身体を抱くようにしながらジト目で久志を睨んだ。

 

 

「グーの音すら出ません」

 

 

「ふひひひ、そうだろうそうだろう」

春奈は心底愉快げに笑って続けた。

 

 

「でも、心から笑ったよ。楽しかった。まるであの日みたいで。…海で見た朝日も綺麗だったしね」

 二人、宿に泊まったあの日。夜も明けていない内から自分を眠りから起こしてくれたのは、紛れもない春奈だったからなのだろう、と久志は思った。

 

 

海から登るオレンジの輝きを神妙に見つめていた春奈の横顔が思い出される。いつか一緒に海から上がる、日の出を見る。奇しくも叶えられた約束は、久志の心に暖かな充足感を残してくれていた。

 

 

「うん、その約束よく覚えてるよ。叶えられて本当によかった。誘ってくれてありがとう」久志は、心にじんわりと広がる暖かさを感じながら春奈を見つめる。

 

 

「は?約束?な、何のことかしら?あの時、私はただ朝日が見たかっただけだし」

春奈はプイッと顔を逸らし、口を尖らせる。

 

 

ついでに思い出せば、あの時、新潟出身の宿の主人の新潟弁を自然に理解したのも、彼女が春奈だったからだ。主人に名前を聞かれた際に、反射的に水本と嘘をついてしまったのは、咄嗟の判断ミスで彼女の記憶の断片を掘り起こしてしまったせいだったのかもしれない。あの時の自分の軽率な発言に、酷く後悔した。

 

 

「そういえば、その後、主人に名前を聞かれてすぐ、水本って言った。あれは、その、適当に言っていい名前じゃなかった。ごめん…」

 

 

「そうね。都合の良い嘘をつく理由に名前を使われたのは不愉快だった。でも、兄妹設定なんて私が、厄介な演技を押しつけちゃったから、まあ、お互い様かな」

春奈は、悪戯っぽく笑ってくれた。

 

 

久志は、肩に乗る荷が降りたような軽さに安堵する。僅かな沈黙に、部屋の時計のお針の音が響いていることに気づいた。

 

 

「そういえば、猫に戻るのって、二週間くらい、だよな?」

時刻はもう間もなく午前0時になろうとしていた。

 

 

「うん。神様?みたいな声によると、二週間くらいらしいわ。13日間は確実に人間でいられるって言ってたけれど、その13日目が今日だったの。適当な神様の声をあまり信用しないなら、猫になった日も一日としてカウントして、猫になった日が先週の月曜で1日。久志を警察の職務質問から助けたのがその週の土曜で6日。週明けて、昨日の金曜日に宿泊まって12日。そして今日がその13日目」

春奈は、力無く目を細めて膝を抱いた。伏せられる長いまつ毛、その瞳の奥には脱力したような、諦めの色が滲んでいる。

胸に走る鋭い痛みのすぐ後に、細い耳鳴りが耳の奥に響き、彼女を中心に視界が白く滲んでいく。

 

 

「そ、それじゃあ!0時回った瞬間に春奈の意識は、今どこにいるかわからない猫に戻ってしまうって事か!?」

 

 

「そうね、ねえ久志?」

春奈は膝を抱きながら、梶原早希の瞳で、まっすぐに一人狼狽する久志を見ていた。

 

 

時計の針はもう数秒もすれば0時を示そうとしていた。

久志は、時計と春奈を交互に見て慌てふためくことしかできなかった。

5、4、3、2…

 

 

「私、最後に久志とデートしたかった」

0時を回った。時計の針は秒針を刻み続けた。

 

 

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