第37話


 稲木神社は学校から徒歩5分ほどにある児童公園の隣にひっそりと佇む狭い境内の神社だ。

 

 

小山の麓と言うこともあって、鬱蒼と茂る木々に囲われた薄暗い児童公園に子供たちは寄り付かず、一昔前までは柄の悪い人たちの溜まり場になっていた。

 

 

夕刻のオレンジの淡い明かりは鬱蒼とした木々に分散されて既に辺りは薄暗く、苔を生やした狛犬や古い鳥居が静謐に佇み、人気のない御社殿はどこか不気味だった。

 

 

あまり人の寄り付かないこの場所を、待ち合わせの場所とし使用するのはセンスの悪さを露呈させるようなものだったかもしれない。

 

 

早速つまずきかけた幸先の悪さに危機感を覚えた久志は、この邂逅がなんとか上手くいくように参拝をする。

 

 

賽銭泥棒も狙わなそうな錆びついた金属の賽銭箱が、久々の賽銭を喜ぶような、乾いた金属音を響かせた。人気のない境内の階段で待つこと数十分。

 

 

「こんばんわ」囁く少女の声が目の前ではなく、すぐ後ろから、閉ざされているはずのお社の扉の方から聞こえ、慌てて振り向く。

 

 

「え、ええ!?」

彼女を見た久志はひどく驚き、情けない声をあげてしまった。

 

 

「あ、ご、ごめん。驚かせちゃったかな」

 

 

 そこには、最近よく見知ったクラスメイトの女子が立っていた。

 

 

薄い唇を柔らかく吊り上げて微笑む彼女。そういえば彼女が笑って、話しているところを一度も見たことがない。

 

 

というのも、彼女にはそもそも友達がいない。いつもクラスの隅っこで、寡黙に、退屈そうに窓の外を眺めているか、読書をしていた。ミディアムロングの黒髪に、二重で大きくて円な瞳。上目遣いで久志の顔を覗き込む。白い頬は寒さのせいか、化粧をしたようにほのかに紅潮している。そういえば、物静かに読書をする人形のように整った横顔と、背筋の伸びた綺麗な姿に、藤巻と内藤が「隠れ美人だよな」「ダイヤの原石ってこのことか」と、密かに賞賛していた。

 

 

一部の男子から人気があるとは聞いていたが、なるほど。近距離の彼女を目の当たりにし、その意味がよくわかった。特に、動いている、というか、表情のある彼女はその魅力が格段に増す。

 

 

「あ!いや、違う意味で驚いたというか…」

「う、うん…なんか、これ、変な感じだね、同じクラスメイトなのに」

 

 

久志がひどく動揺し、目線が泳ぎまくってしまうのは手紙のやりとりをしていた彼女が予想外の人物だったからではない。

 

 

彼女が、ついさっき宮地にいびられていたあの女子だったからだ。

 

 

張られたはずの頬はもうなんともなっていなかったが、あの時何もしてあげられなかった無力な自分を自責してしまう。

 

 

もちろん、久志はそれについて何も言えるはずがない、彼女が理不尽に殴られているのを見て見ぬふりをしたなど、当然言えるはずがなかった。

 

 

「そういえば、私の名前、知ってる?もちろん、アキ、じゃないんだけれど…」

不意をつかれた。同じクラスなら当然相手の名前くらいすぐに出てきてもいいはずだ。

 

 

しかし、人の名前を覚えるのが苦手な久志は、昨日から彼女の名前を思い出せないままでいた。

 

 

「…ごめん、実は…」

 

 

「ふふ、だよね。なんか久志くんって周りに流されて生きてる感じだから、私みたいなぼっちの事なんて眼中にないんでしょ?」

 

 

可愛い見た目と裏腹に、手紙でやりとりしたような悪戯っぽさは健在だった。彼女の声は、か細く澄んだ清々しい空気のように優しい。

 

 

「誰が草船だよ…って、ここで強気になれる資格が無いのはご指摘通りです」

 

 

「ふひひ、私は水本春奈。覚えてね」

独特な笑い声が胸にくすぐったく響く。宮地とのやりとりの時とは打って変わって、彼女は別人のようだった。

 

 

 手紙でやりとりしていた時に、ぼんやりと彼女がどんな人物なのかと想像したことはあった。が、その遥か斜め上を行く展開に久志は心が追いつかないでいた。

 

 

頭の中では体育倉庫で目の当たりにした彼女に対する後めたさが在らぬ事故を起こして、この機会に色々話したかった事が頭の中で事故渋滞を起こしていた。

 

 

なんでアキってペンネームだったんだ?なんで自分なんかと文通を?あ、そうだ。とりあえず持ってきたアルバムを渡そうか?というか、名乗られたなら自分もとりあえず名乗るべき?いや、そもそも俺の名前、彼女は知ってるし…

 

 

「…どうしたの?」

 

 

 春奈は揶揄う様に笑いながら顔を覗き込んでくる。そういえば、教室で彼女が笑ったのを見たことが無い。この笑顔は、きっと自分しか知らないのかもしれない。そう意識すると久志は心が甘く締め付けられた。か、わいい…。

 

 

胸の中で小気味のいい音が響いたような気がした。紙の上で綴った文字という道を少しずつ歩みながら、やがてたどり着いたこの瞬間、漠然と胸の中で燻っていたこの気持ちの正体に、ようやく久志は気づいた。

 

 

都合のいい予定調和だと、今の状況を俯瞰する自分が野次を飛ばすが、そんな事はどうでもいい。燃え上がった気持ちは、恋、という大きな文字をありありと描いて燃え上がっていた。

 

 

久志は壊れたロボットのようにぐるぐると揺らしていた頭をカチッと定めて春奈と視線を合わせる。

 

 

「ふひひ、本当に、どうしたの?」

急にシャットダウしてしまうぶっ壊れたPCのようになった久志が可笑しかったのか、春奈は独特な笑い方で肩を震わせて笑っていた。そして小首を傾げる。艶やかな尖った唇、澄んだ黒目に久志が映る。

 

 

なんて尊いのだろう。と思った。

 

 

「私が王子とか言う男子に悪戯で告白されてる所、覗いてたの気にしてる?」

 

 

 心をハートの矢で射られたばかりの放心状態の久志に、もう間も無く爆発する爆弾をさりげなくパスされたような心地になった。

 

 

「君がくれたこの爆弾を抱きしめて爆死したら許してくれる?」

 

 

「死ぬのなら、新木君の全財産で私に何か奢ってご馳走してからにしてよ」

 

 

「俺の存在意義って君にとって食欲を充してくれるかどうかなんですか?って違う!ごめん!あれは偶発的な事故でして、俺はただ体育倉庫に用事があって、そしてら」

 

 

「何動揺してるの?別に私が振られたわけじゃないんだし、後ろめたいことなんてないよ。ただ、うん、ちょっとね…」

 春奈は恥ずかしそうに俯いた。

 

 

「ちょっと、何?…」

「私がなんて言って断ってたか、聞かれてたかなって…」

 

 

 頬を染め、もじもじしている姿は何事も控えめな教室にいる彼女らしい。

 

 

「ああ、あれ!あの嘘もなかなか上手かったよね。あんな状況で嘘でもちゃんと理由を付けて断れる余裕なんて俺だったら絶対ない」

 

 

 好きな人がいる、がもし本当で、それが自分だったらなんて妄想をしても、本当に期待してしまうほど傲慢ではない。

 

 

「嘘?…あ、うん!そうそう嘘なの。なんかあの王子って人すごくモテる人みたいだけれどさ、私はああいう人苦手なんだよねえ。宮地さんは散々王子って人の容姿を言ってたけれど、かっこいいから好きになるんじゃなくて、好きだからかっこいいんだし」

 

 

 王子は春奈に告白をして振られた直後、何らかの罰ゲームで告白をしてしまった事を謝ったらしい。

 

 

美貌も才能も備えた学校一のモテ男にしては、もっと横暴に振る舞ってもいいものを、随分と丁寧で殊勝だなとは思ったけれど、万が一にも春奈の答えがイエスだったらと思うと、今になってゾッとする。

 

 

今回は冗談で済んだが、仮にも一度好意に傾いたその気持ちを裏切るなど最低な行為だ。結局彼らは、軽いノリで女心を弄ぶような軽薄な奴らで、上流階級の危険なお遊びは到底許せるものではない。久志は宮地という女や響とか言う赤毛も王子にも警戒しようと心に決めた。

 

 

 特に宮地には要注意だ。彼女は王子の彼女であるらしく、聞けば春奈とは小学校の頃からの幼馴染だそうだ。

 

 

一時は仲良くしていた時期もあったが、小学生の時に宮地が好きだった男の子が春奈に告白をした事を機に、二人に軋轢が生まれた。

 

 

宮地の事を思った春奈は彼を振った。けれど、それが気に入らなかった宮地は春奈を友達グループから外し、ありもしない噂を流し、悪口を加え、周囲に共感を煽ってクラス全員で春奈を嫌わせたのだ。それはいつしか陰湿ないじめに繋がり、春奈は訳もわからないまま耐え続けたそうだ。中学も宮地と一緒になったが、人間関係や環境が変わったおかげか、いじめはパタリと止まったらしい。

 

 

「まあ、あの子もいじめなんて子供みたいで恥ずかしいって思ってくれるくらいには大人になってくれたんじゃないかな。見た目も昔よりだいぶ変わって、髪染めたりピアス開けたり、背伸びしがちだけど、見た目だけじゃなくて内面もちゃんと大人になって欲しいな」

 

 

 言ってから春奈は、少し寂しそうに目を伏せた。それから久志は気分を切り替えるために積極的に話し続けた。

 

 

手紙では春奈からの質問が多かったが、今度は久志の方から春奈への質問が止まらなかった。

 

 

 アキというペンネームは単純に一番好きな季節が秋だと言うことと。自分には趣味と言えるほど熱中できるものがなく、多趣味の久志が羨ましく、音楽もこれまで久志が紹介した音楽以外は流行りのJ POPもほとんど聞かないと言う。

 

 

 写真も久志が送った物なら全てアルバムに閉じていてたまに見返してくれているそうだ。

 

 

「日常風景って言うの?何気なく見過ごしてきたありふれた日常の中にも、こんな素敵な場面があったんだって、久志君の写真ってそれに気づかせてくれるの」

 

 

 春奈の口から紡がれる甘い言葉は、自分の写真に感じていた物足りなさや、広瀬先輩の圧倒的すぎる才能の差で感じた諦観を、綿飴を口に含んだ時のように、あっというまに溶かしてしまう。

 

後に残るのは甘い甘いふわふわした気持ちと春奈の照れた笑顔。彼女だけが笑ってくれる写真を撮りたいとさえ思えた。

 

 

 他にも兄妹のことや何処に住んでいるのかなど、子供の頃の思い出や出身校の事など、聞きたいことが溢れに溢れて、図々しいと後々反省するほど聞いてしまった。

 

 

最初の春奈の手紙の強引さに比べれば、と自分に言い訳をしながら聞いていたが、春奈は何事も心おきなく応えてくれた。

 

 

 気づけば夜の帷が降りて、弱い明滅を繰り返す街灯が灯り始めていた。

 

 

 そろそろ帰らなきゃ、と、夢のような時間から覚まさせてくれたのは春奈だった。

 

 

「もしよかったら携帯のメールアドレス、教えて…」聞いたのは久志だった。これほど春奈のことを知って、もっと身近に彼女と繋がれるものがあるのなら、それを使わない理由はもう無い。その一言は今日と言う日の集大成なような気がした。

 

 

「あー言っちゃった。私の勝ち」「は!?なんだよ勝ちって」

 

「ふひひ。別に」

 

 

 今思えば学校の誰も知らない自分だけの彼女の笑顔は、ここだけにしか咲かない花だった。久志はまだ、その本当の貴重さと儚さに、この時はまだ気づいていない。

 

 

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